2011年7月30日土曜日

ChosunNinja’s Unbeliavable Joke!

 

I was too angry to react for a while when I found the comment Greg “the humble servant of God” said. So I could’t mention to this till now.

The comment was found on 11th Mar 2011. Just two month after from the Earthquake and Tsunami in East-Japan.

This is what he said. For Greg’s follower, I want you to read what he said, and think about what kind of parson he is.

choson_radiation

Although only in his claim, he is a half Japanese and his mother is a Japanese, how he can say the nuke joke like that!

Also, his mother had been to Hiroshima in 1945 and suffered from atomic bombing… according to his comment.

If he is like who he claim, he must the las man say like that! Nobody can say such a joke if his/her mother had be atom-bombed.

Again, to Greg’s follower, Is he your sensei who you want to learn form? Do you still think he teach something to you with “respect and love”? Can you be proud of him yet?

2011年7月28日木曜日

The Evaluation of the Japanese Swords from Historical Primary documents (4) “Annual of the Chuson Dynasty Seonjo”

“Annual of the Chuson Dynasty Seonjo” Vol.26, 25th year from Seonjo reign (1592) 5th month 3rd day 6th article

「人心怨叛,與倭同心」

(Korean) people had a grudge against their king, and supported Japanese.

「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」

Korean people said to their king, "The Japanese is human too.Why should we leave our hometown? "

www.dotup.org1813772_thumb[1]

2011年7月27日水曜日

一次史料にみる日本刀の評価(4) 『宣祖実録』

宣祖 26卷, 25年 5月 3日 6回目の記事

「人心怨叛,與倭同心」

人心は怨み叛き、倭に同調するのみ

「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」

我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要があるのか?」

www.dotup.org1813772

2011年7月26日火曜日

The Evaluation of the Japanese sword from Historical Primary Documents (3) “History of Ming”

"History of Ming" Vol.320 Choson(Korea)

「自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。」

At seven years Japanese invation in Korea, we lost handreds thousand of soldiers and millions of war chests. Our solders and dependency’s had no chance to win but the calamity of war was ended as a result of the death of Hideyoshi.

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We can find a similar document in Japan article.

"History of Ming" Vol.322 Japan

「前後七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與朝鮮迄無勝算,至關白死兵禍始休。」

In seven years, we lost Hundreds thousand of soldiers and millions of war chests. We and Korea had no chance to win but the calamity of war was ended as a result of the death of Hideyoshi.

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2011年7月25日月曜日

The Evaluation of the Japanese Swords from Historical Primary documents (2) “Annual of the Chuson Dynasty Seonjo Reviced”

『[Annals of the Chosun Dynasty Seonjo Reviced』 27vol,  26th Year from Seonjo reign (1593) 1st Month 1st Day

「天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深,不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。」

Heaven’s army (Soldiers from Ming Dynasty) have no firearms but short swords, ride horses but the road was steep and deeply muddy, they can’t driving a horse.。Japanese army swang their long swords and charged to right and left, the swords were well sharpen, that’s why threre was no enemy.

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2011年7月24日日曜日

The Evaluation of the Japanese sword from Historical Primary Documents (1) “Muye dobo Tongji”

“Muye dobo Tongji” Overtune, Questions of Martial Arts

「興倭封陳倭輙敢死突進我軍雖有持槍而帯剣者剣不暇出鞘槍不得交鋒朿手而盡衄於兇刃皆由於習法之不傳故也」

Fighting against Wae(Japan), Their army made a desperate charge to us. Though we had spears or swords, There was no time to draw swords or no chance to cross spears, everybody were killed by opponet’s sword. Because no tradition to train swords or spears had been passed down.

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2011年7月22日金曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その9

(この章は:餅 ◆ACiNmI6Dxs さんによる翻訳です)

初期日本の視覚芸術

視覚芸術は日本で非常に早い時期から――事実、12000年以上前から始まった。我々が知っている他の人類とは異なり、日本先住民の縄文文化は、他文化よりずっと以前に陶器を発達させた。人類学の伝統では陶芸は、世界中で農業の発明の後にのみ発生する人類の発達であると考えられる。土器は、農耕に沿って、伝統的に新石器時代文化(Neolithic)から中石器時代(Mesolithic)に分けられる。しかしながら、人類が活動的遠隔農業に従事する数千年前まで、狩猟採集縄文陶器は巧みな土器であるだけでなく、信じられないデザインの手工芸陶器であった。土器は、渦状に積み重ね、高くした線(※しわ?)から作られた、これらの渦の境界線は土器に"縄"のような外見を与えた――それゆえ縄文または"縄"という名がついた。

土器は非常に早く出現したにもかかわらず、縄文人は非常にゆっくりと視角デザインを発達させた。さまざまなデザインの繰り返しを強調させるために指や糸を使って。縄文時代中期(紀元前2500年から1500年)、縄文人はより定住し、人形を製作するようになった。彼らの単純な装飾の陶器は、この時期に非常にエネルギッシュな装飾品へと発展する。一方中期、後期(紀元前1500-1000)と縄文晩期(紀元前1000-西暦300)の人型は識別的人間であり、抽象的で高度な様式化を残している。

建築では、縄文時代中期以降から、人々は地面に4-5フィートほど掘られた竪穴式住居の家に住んでいたことを知っている。竪穴式住居は平安時代になっても標準建築物であっただろう、そして日本書紀と古事記に詳細されているすべての伝説の神々は、室もしくは竪穴住居に住んでいる。

弥生の部で詳細を議論したように、この日本史で短い期間、最後の紀元前300年から西暦300年の間に、もっともドラマティックな文化の変化が日本社会にもたらされた。文化は、クラスベースの文化に半農業親族を基にした文化から、階級を基盤とした文化へ変わった。弥生人は栽培稲、定住農業社会に住んでいた、そして青銅と鉄(正式には"現代"人がそれらを作る)を取り入れた。定住社会と農業の発展は、日本の建築を竪穴住居から建物を造りあげるように変化した。それはただ純粋に儀式的な用具、鐘などの発達を可能にした。土器や金属製の花瓶、精巧で洗練されたデザイン、その多くは中国から輸入された証拠である。日本文化の多くと同様に、多くの弥生時代の芸術と技術は、韓国と中国から輸入されていた。

何よりも古墳時代から際立ってくる視覚芸術は、いくつかは非常に長く、強力な皇帝や他の人のために構築された巨大な墓だ。新世界の文化を含めて多くの文化は、よく似た埋葬建造物のいくつかの種類を開発したが、我々は日本におけるその起源を理解するかもしれない。弥生人は伝統的に、農地を見下ろす丘の斜面に死者を埋葬していた、古墳によってつくられた巨大な墓塚は、恐らくその慣習の延長なのだろう。むしろ丘の中腹の重要な死者の埋葬よりも、古墳日本人は単に彼らのために丘全体を造った。

非常に最高の墓塚と同様に、日本の古墳は真に壮観に見られる。円や鍵穴のような各々の形、これらの塚は、埋葬室をした。5世紀より堀に囲まれた巨大な人工の塚が建設された。それらの最大の仁徳天皇陵は、1600フィート以上の長さで90フィートの高さである、全体の墓は、3つの堀を含んで、ほぼ460エーカーを占めている!

私たちは古墳は芸術であることをよく知っている、なぜなら死者は、副葬品が一緒だからだ。おそらく、それらは次世界へ運んでくれる。食べ物のほかに、これらの副葬品は鉄具や武器、宝石、陶器、鏡と、最も魅力的なものは、埴輪と読んでいる粘土の人形である。

埴輪の正確な性質や目的は謎のままだが、古墳時代の日本は驚異的な数で、それらを作り出した。これらの小さな粘土の置物は、ほとんど常に古墳時代の人々と物質文化の表象のある程度、の現象だった。いくつかの家、盾、道具、および人である。古墳時代の人々は、ある程度自分の周りの世界を代表している、と彼らの表現は、彼らがどのように生活していたかだけでなく、彼らの生き方と考えを垣間見ることができる。

埴輪をつくった人々は古墳時代を通じて技術を改良した、人形土製品は、経済機能に基づいて認識され始める:兵士、狩人、歌手、踊り手、など。人形の最大数は、鎧の男、どの時期も恒久的な争い( 日本紀と古事記、日本初の日本史の部分で確認できる)の一つがあったことを示唆している。また何かの拝謁品を意味する。
埴輪の別の興味的な容姿は、それらは経済機能を象徴してるだけでなく、よく人形の心の様を表現している。戦士の人形は、例えば、中立的な特徴を持つ傾向にある。群馬県で見つかった農夫の埴輪は、むしろ大きな笑顔が認められる、その職人がに農民の生活は比較的自由だったと表現していることを意図している。

弥生時代以降、日本の視覚芸術は、韓国や中国の芸術と容易く分離するものではなくなった。テュムラス;塚墳や古墳時代の埴輪は顕著な例外だが、全体的に視覚芸術は、大陸のモデルを模倣したものであった。この模倣する性質は、7番目と8世紀、日本の視覚的想像力が視覚的な様々なジャンルに爆発し始めたとき遠慮のない、独創性のない奴隷のように思える。

この日本における視覚的想像力の爆発は、寺院の建築で最もダイナミックになる。我々は初期の神道を知っている、実際の建物にはほとんど注目する点がない。ほとんど、いくつかの地は、神聖な小さな神社が建てられたと考えられるが、完全な寺院の礼拝と建築は、初期の神道にとってはエイリアン、外国のものだったようだ。
寺を崇拝するという、その本土との交流でアイデアと習慣は、主に仏教を通じて導入された、この初期は、神道に適用された。

もし古代日本の視覚世界の急激な出立で、唯一のものを選別するならば、寺院の建物は最善の候補となるだろう。日本人は確かに中国モデルをなぞっていている一方、その全面的建築技術のモデルは倉庫で、初期の弥生時代の先住民の建築発展である。高床式倉庫は地面の上に高く米の倉を配置する木の構造物のデザインである。その倉は、倉を持ち上げて、入り口への急な階段の足場が建てられている。

一番最初の神道の寺院は、倉モデルにほぼ近い。これらの寺院の最大のものは、国家神道カルトの中心地となった威厳ある伊勢神宮である。(※倉を原形とする社殿形式が“神明造”(伊勢神宮の正殿が有名))これらの建築複合体の中心は本殿 またはメインホールである。その神道の建築は、仏教のものとは異なり、ほぼ完全に儀式用建築である。神社の複合体は、浄化の儀式の連続について、一つあなたは言うかもしれない、神道の神々は主に自然の力なので、建築は自然の形成である、儀式を構成する空間的な部分としての川や森など。例えば、伊勢神宮では参拝者は鳥居やをくぐり、または盥で口や顔を清め洗う。これらの譲歩は、しかしながら、川へ、古代日本では複合体の継続の間を渡らねばならなかった。この川清めを通り抜ける、完全でさえある、そして鳥居。(※古くは神前に流れている川で手を洗い口をすすいだりして清めたのを説明?)

これは理解しておくことが重要です。神道の建築について我々が収集した内容から、人間の作った物質は、自然界の延長を意味していた。人工建築物と自然界の包囲の人工的差異は、神道の視覚的な想像力に影響があったのではないのだろう。

参拝者がこれらの巨大な神社の複合体から、人工的建築と自然の姿にほとんど違いを見ていないということがかなり可能である。

先に述べたように、寺院の建物は、主に仏教を通じて導入された。この宗教は、しかし、日本では不安定なスタートを切った。593年、最初の仏教寺院、四天王寺、奈良(現在の大阪)に建設された、までなかった。これらの初期の寺院はほとんど韓国の仏教寺院の隷属的な(独創性のない)イミテーションだった、中央の仏塔に、屋根つき廊下ですべて囲まれた三つの建物kondo(金堂)で構成している。

2011年7月21日木曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その8

音楽

奈良時代以前の他の文化と同様に、奈良平安以前の音楽的生態の再構築は非常に難しい。たしかに日本は、中国・韓国の影響が6世紀に伝来する以前から、活力ある音楽の伝統を持っていた。この伝統は、流行歌の一部に、政治社会問題の大部分に、神道儀式や祝詞に、またおそらく奈良平安時代から伝わる宮廷音楽や宮廷舞踊の中にも生き残っている。しかしこの音楽がどの程度日本由来のものであるか割り出すのは難しい。

日本が音楽について記録し始めた時にはすでに、おもに発祥地や地理的起源によって音楽を分類する洗練された音楽理論を開発していたようだ。日本と米国の音楽史研究者はともに、初期日本音楽を仏教音楽・神道音楽・流行歌・宮廷音楽(雅楽)・軍歌などに分類するが、初期日本では地域ごとの音楽として分類した。よって、もしあなたが古代日本の音楽の成り立ちについて何らかの教育を施されていたなら、古代日本音楽を聞く現代の音楽学者や聴衆がするような「使用法による音楽の分類」ではなく、「文化による音楽の分類」を聞いたことがあるだろう。

日本の音楽は、雅楽・唐楽・唐散楽・高麗楽・林邑楽などに分類される。不幸にも、時代の日本の楽譜は残されていないが、それがどのような音楽であったか書に残された説明に基づいて想像できる。

古代日本で世俗を支配した音楽は、雅楽と呉楽である。これは中国南方と北インドシナから輸入された流行の舞踊と無言劇のための音楽スタイルだ。これは6世紀末にもっとも流行った公的音楽であると言っても良い。しかしこの音楽はのちに、公的音楽のうち最も低級な形式へと落ちこぼれた。

唐楽と唐散楽は中国・唐を起源とする音楽である。この唐王朝の音楽の生態は、極端に種類が多く多文化的だ。”ten styles of music”と呼ばれる正式な規則が朝廷での中国・渡来音楽の序列や演奏法を支配した。楽曲の双方が”ten styles of music”の音楽形式と学術的規則に則っている場合、その音楽は唐楽となる。しかし、楽曲が唐の流行歌から成り立っている場合、その楽曲は唐三楽となる。三楽は初期音楽の中で最も活発で刺激的だ。歌の合間に曲芸的で力強い無言劇を撒き散らすのだ。

最後に、高麗楽は韓国の三国時代の音楽であり、林邑楽は南アジアの音楽である。林邑楽は常に舞踊と無言劇を含んでいる。

古代日本の公的音楽において、音楽とその他の要素を分離することは不可能であった。物語・無言劇・舞踊・曲芸および全ての音楽形式は、音楽とその他の要素のまとまりとして認識されるのだ。おそらく今なお続く主な間違いは、現代人としての我々が、音楽はその他の演技の面から分離できるという何かしらの考えをこの音楽の成り立ちに持ち込んでしまうことだろう。19世紀の西洋の音楽美学においては「音楽のみ」と言われた。しかし古代日本の宮廷音楽は、演技・無言劇・物語・舞踊を伴わなければ意味を成さないのだ。

(以下略)

2011年7月20日水曜日

一次史料にみる日本刀の評価(3) 『明史』

『明史』 320巻 朝鮮伝

「自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。」

七年にわたる朝鮮の倭乱によって、兵数十万と糜餉(戦費)数百万を失い、中国と属国(朝鮮)に勝算はなかったが、関白(秀吉)の死により戦禍は終息に向かった。

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同様の記述は日本伝にも見られる。

『明史』 322巻 日本伝

「前後七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與朝鮮迄無勝算,至關白死兵禍始休。」

七年にわたって、兵数十万と糜餉(戦費)数百万を失い、中国と朝鮮に勝算はなかったが、関白(秀吉)の死により戦禍は休息に向かった。

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一次史料にみる日本刀の評価(2) 『宣祖修正実録』

『宣祖修正実録』 27卷, 26年(1593) 1月 1日

「天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深,不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。」

天兵(明兵)は短剣を持ち騎馬であり火器はなく、道は険しく、泥深くして駆けることができない。賊(日本軍)は長刀を奮って左右に突撃し鋭鋒であり、敵なしだった

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一次史料にみる日本刀の評価(1) 『武藝図譜通志』

『武藝図譜通志』 巻首 技藝質疑

「興倭封陳倭輙敢死突進我軍雖有持槍而帯剣者剣不暇出鞘槍不得交鋒朿手而盡衄於兇刃皆由於習法之不傳故也」

倭と対陣すると、倭はたちまち決死の突進をしてくる。我が軍が槍を持ち剣を帯びていようとも剣を鞘から出す暇がなく、槍も切っ先を交えることができず、皆凶刃によってことごとく血を流す。すべて剣や槍の訓練法が伝わらなかったためである。

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ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その7

日本語

他のすべての言語と同じく日本語は、形式的には言語学的特徴のまとまりとして、主観的には世界の成り立ちと序列の一手段として理解することが可能だ。しかし他の言語と違って日本語は、言語学者にとっても日本語話者にとってもユニークな言語である。日本人は全般的に、自分たちの言語が高度に独自なものであると信じている。日本語は、この世に存在するいかなる言語とも似ていないと信じるものさえいる。西洋の言語学者は、北アジアの諸言語と日本語の間には明らかに関連性があると信じているが、しかしこれらの言語の間にはかなりの量の非類似性もあるのだ。日本語は、何処からやって来てどの言語と関連性があるか断言できない唯一の人間語だといえば十分だろう。

日本人の見解では、この言語の成り立ちは広く受け入れられている二つの信念に基づいている。一つ。日本人は、日本語はまるではじめから日本語として存在した言語であるかのような、とにかく非常に独特な言語であると信じている。二つ。日本語は、非日本語話者にとって読んだり理解したりするのがとても難しい言語であると信じている。事実日本人は、日本語を理解し話せる非日本人のことを「ヘンガイジン(狂った外国人)」と呼ぶ。つまり日本人にとってのこの言語の成り立ちは「自分たちは、他者には理解も共有も出来ない言語を利用している」という意味を持った排他なものなのだ。

西洋的な広い視野からすると日本語は、ユニークな言語でも極端に習得が難しい言語でもない。(中国語や古アイルランド語のほうが相当むずかしい)まあこの議論はここで終りとしよう。日本語が由来する語族が不確かであるため、西洋・日本双方の学者の間には、日本語の起源について3つの主要な説が存在する。

1.日本語は、韓国語・モンゴル語・トルコ語と関連のあるアルタイ語族である。

2.日本語は、パプア語・マレー語・太平洋諸語と関連のあるオーストロネシア語族である。

3.日本語は、ベトナム語・チベット語・ビルマ語と関連のある東南アジア語族である(または、ある学派の考えでは南インドやセイロンの言語であるタミル語族である)

ほとんどの言語学者は、日本語はアルタイ語族であると考えている。弥生人は韓国から移民しただろうという事実を考慮するとそれなりに道理が通るからだ。しかし、かなりの数の日本の言語学者は、日本語はオーストロネシア語族だと考えている。これらの視点の相違は、日本語の起源をめぐる3つの理論を盛り上げている。

1.西洋のモデルによると日本語は、北アジアで話された言語がいくつかに枝分かれした(例えばモンゴル語・韓国語・トルコ語)うちの一つに由来する。初期日本人もおそらくこの言語を話していただろうが、弥生人は間違いなくこの言語を話していた。弥生時代の終り(西暦300年)には、このアルタイ語族の言語は列島を占拠した。この言語は一部、日本を取り巻く太平洋諸島の言語(オーストロネシア語)の影響を受け、従って日本語にオーストロネシア語の基層を形作った。

2.縄文人はオーストロネシア語を話し、弥生人がアルタイ語を導入した。このアルタイ語はこの島々で話されていたオーストロネシア語と融合し、日本を席巻することと成る独特の合成語である日本語を形作った。このモデルでは二つの可能性がある。日本語は、オーストロネシア語の基層を持つアルタイ語であるか、アルタイ語の基層を持つオーストロネシア語である。お好きな方をえらんでくれたまえ。

3.日本語はもともと4~5千年前の東南アジア人の大移動の間に日本に導入されたチベット語、あるいはタミル語と関連があった。この言語は、そう、あなたのご想像のとおり、アルタイ語とオーストロネシア語と融合し現在の言語を形作った。

これは踏み込んで進んでいくには大変な沼地だ。日本語に関連するほとんどについて基本的に同意していない西洋と日本の言語学者たちは助けにならない。世界中の言語学者の場合もそうだが、日本語は愚かであると告発しようとする西洋の言語学者と同様の遠慮をする日本の言語学者による議論はほとんど中傷レベルで行われている。

しかし現在のところ、これが日本語の歴史についての標準的な説明だ。

弥生人はもともと朝鮮半島からの移民であり、アルタイ語を持ち込んだ。この言語は列島でそれまで話されていた言語と融合した。もともとの言語がアルタイ語だったかどうかは分からないが、しかし日本語はあるレベルで太平洋諸語の影響をうけている。彼らは比較的孤立していたので、日本語は、関連性のあった他言語から大きく異なった。これに加え、中国文化から新しい思考法とその表現法が導入された際に、中国語が日本語を根底から変化させた。

事実、ほとんどの日本語の単語(正確には60%以上)は中国起源である。この状況は英語と似ている。英単語の60%がラテン語に由来し、原初英語由来の英単語は少数派である。しかし日本語の文法は大幅には変化しなかった。

徳川時代(1603-1868)、日本語は西洋の言語に大いに影響を受けた。特定の技術が、新たな単語群と表現群を導入した。文法の分野では、三島由紀夫のように、英語に翻訳しやすいように日本語を書く作家も現れた。結果として彼らは、西洋の言語に適するようにいくつかの文法構造を大幅に変化させた。

一言語としての日本語はどのようなものであるか?あらゆる面で日本語は、英語やその他の欧州言語の成り立ちとは全く似ていない。英語と違い、日本語の文構造は主語-目的語-動詞だ。(SOV型言語と呼ばれる。英語はSVO型の文構造である)一方、他言語を学ぶに人々にとって馴染み深いように、主語と目的語の間の関係が英語の表現よりも遙かに親密である。

日本語学習者が最初に気づくことは、日本語は二音節言語であるということだ。(ほとんどの語が二つの音節により形作られている)各音節は一つの子音(consonant)と一つの母音(vowel)によってのみ構成される。(CV音節と呼ばれる)しかしこれらの音節は英語の音節(syllable)とは異なる。日本語ではモーラ(mora)と呼ばれ、すべての音節が子音-母音の構造を持つ。子-母-子の音節は存在しない。もし子音が母音を従えない場合は、一音節と勘定される。「新聞(shinbun)」という単語は4音節あるいは4モーラ(shi-n-bu-n)を持ち、「太巻(futomaki)」も同様に4音節を持っている。日本の詩歌を学ぶものはこれを覚えるべきだ。日本のすべての詩歌は音節を数えることに基づいているが、英語や他の欧州言語のような音節効果を表現しては決してならない。加えてこのモーラシステムは、英単語を日本語に適用しようとした場合に不可解な表現を引き起こす。中国語を除く外来語の多くは圧倒的に英語由来である。しかし日本人がこれらの単語を英語話者に使おうとすると、おそらく彼らは混乱するだろう。これは、日本語が全ての音節で子音-母音の形式を取らねばならないからだ。例えば、ベスボル(baseball)において打者が投球を空振りした場合、「strike」ではなく「セトゥロク」という。(操業を停止しだした労働者のことは「セトゥロキ」という)

日本語に出会った英語話者にとっての最も驚くべき違いは、日本語は強い屈折語ではないということだ。つまり日本語は、ひとまとまりの接尾辞を付加することで動詞や名詞の様々な用法を定義するのではなく、それ自体が一つの単語である助詞を使うことで名詞や動詞の性質を表す。これはある意味、日本語の学習を容易にする。しかしこれらの助詞は、我々が英語や欧州言語に持つ分類と一致しない。

(以下略)

2011年7月19日火曜日

【日本語訳】法廷で明かされた海東剣道の歴史と真実

海東剣道に関する法廷劇を翻訳しました。まず理解のために簡単に経緯を押さえておきましょう。

  1. 海東剣道(Haidong Gumdo)は1980年代、キム・チョンホとナ・ハニルによって二つの朝鮮ウリジナル武道からコリエイトされた。元になった武術の一つは「心剣道(Shim Gum Do)」、もう一つは「気天門(Ki Chun Moon)」。
    • 心剣道はキム・チャンシクという坊さんが1965年に100日瞑想をしている途中に思いついた武術(ということになっている)。実際には剣道のパクリ。
    • 気天門は1960年代にパク・テヨンらが韓国に広めた武術。朝鮮武術ということになっているが、やはり実際には太極拳・詠春拳・南派蟷螂拳のパクリ。
  2. キム・チョンホとナ・ハニルは高校の同級生で、ともに坊主のキム・チャンシクから心剣道を習っていた。坊主が偉大な朝鮮武術を広めるために渡米すると道場を引き継いだ。
  3. 経営不振で道場は潰れた。その後、映画会社の支援を受けて「気天門」の道場へと鞍替えした。このころ「海東剣道」を名乗るようになり、高句麗の士武郎(Samurang)が起源だということにする。しかし韓国内でさえ知名度は無きに等しかった。
  4. キム・チョンホが俳優としてTVドラマに出演する。ドラマの中で「海東剣道」が登場し道場が人気となる。キム・チョンホとナ・ハニルは剣道の達人として名声を得る。
  5. 大韓剣道協会が、ナ・ハニルを「剣道7段を詐称した」として告訴する。
    • ナ・ハニルは「私は大韓剣道7段ではなく海東剣道7段だ」というアクロバティックな言い訳を思いつき、自前で段位証を作成して難を逃れる。
    • この法廷争いによって、海東剣道はますます知名度を得る。
  6. 心剣道の坊主キム・チャンシクが、キム・チョンホとナ・ハニルの二人を「心剣道をパクッた!」として告訴する。
    • 二人は、海東剣道が心剣道と気天門のパクリであることを認める。
    • それまでの「海東剣道の起源は高句麗の士武郎」という主張が嘘と判明する。
  7. 組織拡大により、金銭問題が発生。組織が分裂する。
    • キム・チョンホは「大韓海東剣道協会」を発足
    • ナ・ハニルは「韓国海東剣道協会」を発足
  8. キム・チョンホがナ・ハニルを告訴する。金がらみで内ゲバに発展、という美しい朝鮮様式美である。

以下、翻訳文です。原文はhttp://blog.daum.net/_blog/BlogTypeView.do?blogid=06zf6&articleno=9050199&admin=#ajax_history_home


<法廷で明かされた海東剣道の歴史と真実>

1990年代入ってから海東剣道の創始者であるキム・チョンホ氏とナ・ハニル氏、心剣道のキム・チャンシク氏は終りが見えない法廷訴訟と誹謗戦を始めた。この過程でベールに隠されていた海東剣道の歴史と真実が一つ二つ現われ始めたが、結局大韓民国の法院が海東剣道の歴史を暴いた模様になった。法院で現われた海東剣道の歴史を一つずつ細かくよく見よう。

▲水原地方法院城南支院の第5回公判調書の一部の認証の訊問調書に見れば次のように出ている。

(事件番号 99 高段 1738 名誉毀損 証人訊問調書)問:証人(ナ・ハニル)は双手剣法、心象剣法、鋭刀剣法、本国剣法、長白剣法、陰陽剣法、太極剣法、海東剣法、双剣法を知っていますか?
答:証人(ナ・ハニル)は双手剣法、心象剣法、鋭刀剣法、本国剣法、双剣法は知っているが、長白剣法、陰陽剣法、太極剣法、海東剣法は知りません。

問:証人(ナ・ハニル)は誰から上のような剣法を習ったのですか?
答:証人(ナ・ハニル)と被告人キム・チョンホは公訴外キム・チャンシクから心剣道を初めて習い、その次に気天門を習い心剣道と気天門は剣の基本になり、双手剣法は証人(ナ・ハニル)が作り、心象剣法、鋭刀剣法は証人(ナ・ハニル)と被告人キム・チョンホが作り、本国剣法は証人(ナ・ハニル)と被告人キム・チョンホが武芸図譜通志を見て現実にふさわしく定立させたので、海東剣道は学んだのではなく心剣道、気天門その他すべての運動が混合して現実にふさわしく定立するよう誕生されたのです。

問:上記のキム・チャンシクの心剣道の中に双手剣法、心象剣法、鋭刀剣法、本国剣法があるんですか?
答:ないです。しかし剣の基本は心剣道と気天門です。

問:証人(ナ・ハニル)は「海東剣道」という言葉が1982年頃に初めて使われた事実が分かっていますね。
答:はい。

問:この用語は誰が作ったのでしょうか。
答:公訴外ツェ・テミン牧師が作りました。

問:証人は1983頃被告人キム・チョンホと一緒に心剣道体育館を運営しているさなか門戸を閉めた事実がありますね。
答:看板だけ変えただけで、運動は続きました。

問:証人は心剣道と海東剣道はお互いに違う内容の剣道である事実が分かっていますね。
答:違うのではなく、関連性があります。

▲上の証人訊問調書を検討して見ればいくつか事実が分かる。
[第一] 海東剣道はキム・チョンホ氏とナ・ハニル氏が一緒に作ったものだという事実であり、
[第二] 海東剣道の名称はツェ・テミン牧師が作ったということであり、
[第三] 初期にキム・チョンホ、ナ・ハニル氏は心剣道道場の看板を変えたということであり、
[第四] 海東剣道は心剣道と気天門から派生された剣道ということだ。

今まで高句麗の士武郎(サムラン)が修練したものと宣伝して来た海東剣道創始者たちの言動を推し量ると、法廷での証言は無気力きわまりない。とにかく証人宣誓までして証言したことだから、私たちも事実で受け入れるしかない。ナ・ハニル氏の証言によれば「心象剣法、本国剣法は一緒に作り、双手剣法は自分が作った」と言う。海東剣道創始者としては初めて高句麗武術ではなく、自分たちが作り出した剣術だと証言した意味ある法廷証言に違いない。海東剣道が高句麗から伝承された伝統武芸と純粋に信じていた一部修練生たちは失望で泣くかもしれない。


海東剣道と心剣道と気天門との関係は?

▲海東剣道が20余年前に小部屋で作られた剣術なら、白頭山師匠は何者であり、心剣道、気天門との関係はどうなることだろう?この質問に対する返事もやっぱり法廷で選り分けることができた。キム・チャンシク氏がナ・ハニル氏をソウル地方検察庁に告発した訴状に見れば、

「『海東剣道教本』(ガン・ヤンウク著)第75ページから第76ページにある歴史の項に見れば原告とは全然関連がない海東剣道をまるで原告が受け継いだものであるかのように全然事実と違う内容で記述し原告が創始した心剣道(先防剣法及び先攻剣法)は海東剣道と全然無関係なことなのに海東剣道の一部として原告の許諾もなしに無断で載せたので…」

とされている。
心剣道の創始者であるキム・チャンシク氏も心剣道は海東剣道ではないと主張しているのだ。キム・チャンシク氏が「図書等製作発売配布禁止仮処分」申込書で申し込み主旨を明らかにした部分に見れば、「心剣道は片手で使う特徴があって、他の剣道は両手を使う」と書いている。現在海東剣道は心剣道と違い両手を使う双手剣術が主流だ。

キム・チャンシク氏は本紙とのインタビューで自分がナ・ハニル、キム・チョンホ氏を直接教えたと確かに明らかにしたが、どうして心剣道と海東剣道は違うのか? そして海東剣道の初期創始者たちも気天門を修練した当時に気天門で剣術を学んだ事はないと明らかにした事がある。真実は簡単だ。

心剣道と気天門を俳優キム・チョンホ氏とナ・ハニル氏は片手を使った心剣術の剣訣に 気天門の身法や鍛練方法を混合し、双手剣術として創作したのだ。本人たちが明らかにしたところのように剣の基本は心剣道と気天門だ。その証拠に海東剣道は今も内家神掌と小刀勢、復虎勢、大刀勢、及び開運氣孔のような気天門特有の修練方法を採択している。70、80年代当時のキム・チョンホ、ナ・ハニル氏を知る人々は、彼ら二人が会って数日の間一緒に各種武術書を床に広げ工夫をしては、剣法が一つずつ誕生したと述懐する。水原地方法院城南支院の証人訊問調書でナ・ハニル氏が明らかにしたことと一致する証言だ。


ソウル高等法院の決定文

ソウル高等法院第4民事部の決定文(事件番号97라91。不正行為中止仮処分)に見れば、その間法廷訴訟をしながら整理された海東剣道の歴史が赤裸々に現われている。法院が武林の紛争を仲栽して歴史記録を残すようになったというところに私たちのすべての武術人たちは恥ずかしさを感じなければならないでしょう。今こそソウル高裁の判決文に記録された「認定事実」を一字の添削もなしに公開する。この記録は海東剣道の歴史を勉強しようとする武術人や学者たちにも一番信頼性ある立派な資料になるでしょう。

▲(原告、抗告人: 世界海東剣道連盟。被告、相対方: ナ・ハニル)

ソウル高等法院の決定文(事件番号 97라91、不正行為中止仮処分)

나。認定事実

…このような理由から察するに記録によれば下のような事実が認められる。

(1) 被告と原告の代表者であるキム・チョンホは徐羅伐高等学校同期同窓で高等学校在学時代の1970年頃ソウル新堂洞にあった心剣道護法総館に入館し訴外キム・チャンシク館長指導の下に心剣道を学ぶなど一緒に武術を研いてきわめて親しく過ごした。

(2) 1975年頃キム・チャンシクがアメリカへ移民に行くと被告は武術館を引きつぎ(その頃はキム・チョンホとは離れている状態だった)運営していた1977年頃運営不振でこれを閉館した後また申請外パク・テヨン氏から「気天門」の師事を受け、1980年の初めヒョンジン映画社キム・ドワン会長の後援でソウル瑞草洞63の6シンヤンビルディング301号で「気天門」という名称の剣道場を開館、運営し(その後「心剣道体育館」と改称し、「ヒョンサン映画社武術スタジオ」と併記された看板を使った)、キム・チョンホは1982年頃の瑞草洞道場でまた原告と一緒に働くようになった(原告は当時キム・チョンホが上記道場の館長であったと主張し、被告は被告の勧誘でキム・チョンホが師範として働くようになったと主張するが、記録に現われた当時の上記体育館の規模及び運営状況などに照らせばこれはあまり重要な問題ではない)

(3) 一方被告は上記道場を運営していた1984年頃道場で運動を学んだ訴外故ツェ・テミンの提案により当時道場で使っていた「気天門」という名称に代わり「海東剣道」という名称を使い始め(原告はキム・チョンホが1961年頃訴外白頭山から朝鮮伝来の剣法を伝授され、伝授当時剣法の通り名として海東剣道と称するのが適切だという白頭山の教えを奉じて1983年4月頃これを広く伝授させようとソウル江南区瑞草洞63の6に道場を開館し、その名称として「海東剣道」を初めて使ったと主張するが、上の伝授当時のキム・チョンホの年齢、海東剣道という名称を使うようになった経緯と上の名称使用に関する原告の主張が原告側証人であるキム・ジョンスンの証言、すなわちキム・チョンホが1982年頃安養で海東剣道体育館を開館して海東剣道という名称を初めて使った(まもなく海東剣道は1984年4月頃キム・チョンホがソウル瑞草洞63の6シンヤンビルディング3階で海東剣道道場を開館しながら公式商号で使った名称だと述べているという部分とも一致しない点などこれをそのまま受け入れるのに難しい点がある)。1984年5月頃には 「海東剣法概論」という題の被告が編著者になった海東剣道に関する紹介書を発行し、また劇映画武術研究会員選抜大会に「海東剣道協会」という名前で道場をその選抜場所で提供するなど後援したところもあるが、正式に協会が結成される位その加入者の幸運にめぐまれて組職が揃ったのではなかったし、道場以外に海東剣道を教える他の道場が存在したわけなかった。

(4) ところで1985年初頃、上記剣道館の後援者だったヒョンジン映画社が不渡りに直面すると被告は剣道館の運営を中断するようになり(被告は剣道館の門を閉めた後、被告もキム・チョンホも皆別の事をしたと主張しているが、被告が運営を中断した以降も道場はキム・チョンホによって続いていたと見える)。その後キム・チョンホは訴外ナ・ソンギュンの助けで1986年6月ソウル江南区三成洞に「海東剣道」という名称を使った剣道道場を開館し、被告は海東剣道研究所長という職につくことで剣道道場の総館長だったキム・チョンホと一緒に「海東剣道」の普及に力をつくすようになった。

(5) 上記三成洞道場は1987年2月3日設立者をキム・ヒョンジン、定員を150人としてソウル市江南教育区役所に「海東剣道体育道場」という名称で正式登録され、同年4月6日には商号を「海東剣道体育道場」、代表者をキム・ヒョンジン(同年9月21日ナ・ソンギュンを代表者に追加した)として事業者登録を終え、一方1989年5月10日代表者をキム・ヒョンジンとした「大韓海東剣道協会」が組職され、同月25日全北教育委員会に社会団体として正式登録され、同年12月29日にはソウル特別市から業種を体育施設業、営業所の名称を海東剣道体育道場、代表者をキム・ヒョンジン、住所を三成洞道場とした体育施設業届出済証が交付された(この一連の過程でキム・チョンホが代表者に登録されたことはない)

(6)海東剣道は1989年初めまで一般人に知られていなかったのみでなく、剣道界でもよく知られていなかったが、1989年6月頃被告が主人公ユ・シグァンとして出演したTVドラマ「無風地帯」が視聴者から人気をあつめるようになってそこで放映された体力鍛錬過程及び剣道場面が海東剣道であり、被告が海東剣道の有段者というのが一般に広く知られ、海東剣道を学ぼうとする人々が寄り集まるようになり、これを前後して前述のような協会の組職及び結成が成り立つようになった。

(7)大韓海東剣道協会が組職されキム・チョンホは協会の専務理事の職責を、被告は以前と同じく海東剣道研究所長の職責を引き受け、訴外キム・ヒョンジンが協会の代表を引き受けるようになった。

(8)一方「無風地帯」が視聴者から人気を呼ぶなか被告は放送などに出演して自分を剣道7段の有段者と紹介し、これに対して1989年6月30日大韓剣道協会により被告がエセ剣道教習所運営及び剣道7段詐称で告訴されたのを受け、自分は海東剣道協会所属で、海東剣道7段の有段証を所持しており、大韓剣道協会の資格証とは無関係だと主張し大韓剣道協会を誣告罪で対抗告訴し、その後被告に対する捜査過程でキム・ヒョンジンが代表者になった海東剣道体育道場と大韓海東剣道協会で発給した有段証を提出することで嫌疑なしとの意見で捜査が終決されるなどの紆余曲折を経験したがこれによりむしろ世間には被告と海東剣道の名前が広く知られるきっかけになった。

(9)一方海東剣道が一般に広く知られこれを学ぼうとする人々の数が増え全国の多くの道場が海東剣道道場として大韓海東剣道協会に加入するようになると加入費用の受領及び使用など協会の運営と関連しその構成員たちの間に徐々に紛争が発生し始め遂に1991年11月頃には大韓海東剣道協会が分裂するに至り、被告は分裂後「海東心剣道協会」を作ってその代表者職を引き受け1991年11月13日ソウル特別市に社会団体登録を終えた。

(10)被告は1992年1月27「海東心剣道協会」を自ら解散しまた大韓海東剣道協会に復帰した事があるが(「海東心剣道協会」はその後「心剣道協会」という名前に変更されて維持されている)、その後にもキム・チョンホと所属館長の間に金銭問題に関連した訴訟が引き起こされて、一部道場が離脱するなど分裂が続き1992年末頃の分裂していった道場の館長たちにより「韓国海東剣道協会」が結成されると被告は韓国海東剣道協会の会長に就任した後、1993年1月25日社会団体登録を終え現在に至る。

(11)被告が会長である韓国海東剣道協会は大韓海東剣道協会が教える剣法の内容(海東剣法概論に記述された心象剣法、双手刀、鋭刀、本国剣法、長白剣法、双剣、撃剣)外に双手剣法、外手剣法、左方剣法、右方剣法、外右剣法、外左剣法、夢卜剣法、飛鳶剣法など(主に心剣道の内容を成すことと見える)の剣法を一緒に教えており、一方現在国内には原告側の大韓海東剣道協会と被告側の韓国海東剣道協会以外の「国際海東剣道連盟」、「道法海東剣道会」、「韓国伝統海東剣道協会」、「海東心剣道協会」などの団体が海東剣道という名称を利用し各々その傘下に数十~百余に至る体育道場を所属させて活動しており、原告は国内に160余個(200個以上だと主張したりする)、被告がやはり国内外をひっくるめて相当な数の体育道場をその所属道場にして運営されている。


では白頭山の師匠とは誰なのか?

▲ いまや海東剣道創設当時の歴史と誰がどんな剣法を作り上げたのかが明確になった。どうせ高句麗とは全然関係がないし、何人かの手によって最近作られた武術であるということだ。

それならキム・チョンホ氏が自分に武術を教えたと粘り強く主張する白頭山師匠は果して誰だろう? 初期に海東剣道を学んだ人々はキム・チョンホ総裁がたまに 「白頭山のチョン・ソンニョの話」をしたと回想する。逹磨大師が白頭山へ来てチョン・ソンニョに自分の腕を切って捧げて武術を伝授したというのだ。もちろん逹磨大師が隻腕だということは仏教係では認められていない偽りだ。

-- (中間省略) --

キム・チョンホ総裁は気天を学んだから、気天の説話を海東剣道の説話で変化させて語ったとしてもおかしなことはないし気天を修練した一部の人々が冠岳山の庵に集まって修練した時代もあったので、白頭山師匠が冠岳山で自分に海東剣道を教えたというキム・チョンホ氏の主張の根拠が明確になる。

結局白頭山師匠と言うのは気天のパク・テヤン氏だったのだ。

…また心剣道創始者キム・チャングシク総裁の証言によれば、自分が心剣道を教えたソン某氏が後で冠岳山で100日祈祷に精進しながら、風車剣法というのを創案したが、現海東剣道の創始者たちがそこでその剣術も学んだと言う。冠岳山で海東剣道を教えた白頭山師匠という虚構の人物はこんなさまざまな事実を基礎して形状化されたのだった。しかしパク・テヨン氏とソン某氏を白頭山師匠に格上げさせた功労はキム・チョンホ総裁のアイディアであったようだ。

(出処: 「海東剣道は本当に裁判所の判決で、偽りだと判決されたんですか?」 - ネイバー知識iN)

2011年7月18日月曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その6

大和時代の仏教

552年、韓国・百済の皇帝は、いくつかの仏典と共に仏画を日本へ送った。日本の欽明天皇はこの贈り物を喜び、日本で最も有力な氏族である蘇我氏は、日本の新たな宗教として仏教を承認するよう迫った。仏教は、文明化された西方の宗教であり日本はちょうど、中国と韓国の文化を積極的に取り入れ始めたころであった。

天皇と蘇我氏を除くと仏教への受容はあまり熱心ではなかった。各々の氏族は、自分たちの神や太陽の女神アマテラスを信仰していた。日本は天地開闢の中心地であり、日本人は選ばれた民族であった。その一方、海外の神である仏陀は宇宙を創造したわけでも、神々の殿堂で中心的役割を果たしているわけでもない。はたして彼に土着の神々を怒らせるほど価値があるのだろうか?日本の土着宗教の荒ぶる神々が成し得なかったどんなことを、仏陀は提案しなければならなかったか?

仏教に対する保守的反発は圧倒的であった。蘇我氏はこの仏画を奉納する社を建立し、これを敬い始めた。しかしこの思想が日本に広がり始めると、保守的貴族らはこの仏画を破壊するよう天皇に要求した。この仏画は穴に捨てられ、蘇我氏はこの社に火をつけることを強制された。

数十年後、584年に仏教は再び日本にやってきた。その到来にはまたも蘇我氏が尽力した。蘇我氏のひとりに2枚の仏画が与えられると、彼は仏画のために寺院を建立し、社を管理するため一人の少女を尼僧に叙任した。前回同様、思想は日本を覆い、仏画は破壊された。しかし韓国が仏僧を送りはじめ、日本の憲法を編纂した摂政・聖徳太子の改宗の説得に成功した。実際、聖徳太子は熱烈な仏教徒となった。朝廷内における仏教の体制が恒久に確立したのである。

奈良時代の仏教

奈良時代(709-795)は日本の仏教の隆盛期だ。しかしその影響は首都と朝廷に限定される。日本の大部分は中国の都市的文化や中国仏教の文化的影響を受けていない。それでもなお、奈良仏教の最初期は韓国と中国の仏僧によって独占されていた。彼らは仏教の儀式・衣服・建築・芸術・書籍を持ち込んだ。奈良時代は日本への文化輸入がもっとも活発に行われた時代であった。日本に流入した仏僧は文化的品々を持ち込んだだけでなく、非仏教の概念、たとえば道教の中国宗派・儒教・陰陽論をも持ち込んだ。

奈良時代の日本の仏教徒は大部分が韓国・中国人であったため、同時代の唐仏教と奈良仏教は基本的に同一だ。

三つの主要宗派がこの時代の日本・中国仏教界を席巻していた。すなわち三論宗・法相宗・華厳宗である。他のすべての中国仏教と同様、これらの宗派は2世紀のインドで興った大乗仏教の支流である。この三宗派はすべて、宇宙は常に流動的で常に変化し続けていると信じている。この真諦には、外部世界や偽の感覚認識から開放されなければ到達できない。これらの宗派は、徹底的に道徳的であると自認していた。大乗仏教の大原則にのっとって彼らは、全員の帰依を期待していない。出家生活に身を捧げられないものであっても、現世で利他的な心がけを持てば悟りへの道が開かれる可能性が残っている。たとえば華厳宗は、彼らが大きな花輪の一部であるかのようにすべての人間が相互に関わりあっていると教える。彼らは共有と親睦を強調した。

しかし仏教徒の究極の目的は仏教僧による統治であり、そのような君主がこの地上に仏陀の地を築き上げることであった。766年、日本はこの理想に限りなく近づいた。女帝・称徳天皇は法相宗の法王・道鏡の勧めで皇位を退こうとした。しかし保守的貴族の反対で、日本は世界初の仏陀の地となることに失敗した。

2011年7月15日金曜日

Japanese diffused Hangul to Korean; Korea And Her Neighbors by Isavella Bird Bishop

 

Anthor evidence about that Japan had diffused Hangul (Korean alphabet) to Korean from Korea And Her Neighbors by Isabella Bird Bishop published in 1897.

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Isabella Bird Bishop(1831-1904) was an English explorer and writer who travelled East Asia in late 19C. Korea and Her Neighbors is one of the most valuable journey book as a primary source about 19th century Korea through Europian eyes.

En-mun, the Korean script, is utterly despised by the educated, whose sole education is in the Chinese classics.

Only women, children, and the uneducated used the En-mun till January, 1895, when a new departure was made by the official Gazette, which for several hundred years had been written in Chinese, appearing in a mixture of Chinese characters and En-mun, a resemblance to the Japanese mode of writing, in which the Chinese characters which play the chief part are connected by kana syllables.

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So what is occured in 1895?

In July, 1894, Mr Otori made the useful innovation of publishing the Gasette in clear type, and in the following January [1895] it appeared in a mixture of Chinese hieroglyphs and En-mun, the "vulgar script" of Korea, and became intelligible to the common people.

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Otori Keisuke(1833-1911) was a Samurai in Tokugawa era, later a diplomat in Maiji era. (Of course he was a Japanese.) He was also known as a inventor of “Otori Type” which is a clear type Japanese and Chinese font. He was sent as an ambassador to Korea in1984 and applied Otori Type to Hangul to publish Gazzete from 1895.

Thanks to that, ordenary Korean people finally could access to official announcement which had been dominated by the Korean Establishment until that time. This obviously served as a foundation for Korean democracy.

Yes, again, Japanese diffused Hangul as "official" language in Korea.

2011年7月13日水曜日

Did Japan ban Hangul?

Most of Korean believe (or want to believe) that Japan had banned Hangul in Korea during Japanese Annexation era(1910-1945).
But actually, Japan had provided Hangul education to Korean. Let’s see the text book at the time.
Front cover: “Common School, Korean Language Text Book Volume One”
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Hangul scripts
h2
Katakana(Japanese script) and Hangul. The man and the boy wear traditional Korean cloth.
h6
Discription: “1923 July 7th. Published by Government-General of Korea.”
h4
BURN THE TEXTBOOK! Evil Imperial Japan should had eliminated all korean culture!!

2011年7月11日月曜日

The fact about Hangul ban

There is a sad history that the use of Hangul (the Korean alphabet) was prohibited in Korean peninsula.

The Time that Hangul “the Ethnic pride of Korean” was banned was NOT the infamous Japanese annexation era but the age of Yeonsan-gun and Jungjong ,who was the 10th abolished king and 11th king of Korea's Joseon Dynasty, in the 1500's when Korean mind ultimated level of “admiring” and “serving” the Chinese Civilization.

It is the established fact that particular Korean kings, who made a serious commitment to the chinese civilization, banned the use of Hangul and burned books of Hangul.This facts is specified in The Annals of the Joseon Dynasty, which are the official annual records of the Joseon Dynasty of Korea.

The 10th year of Yeonsan-gun(1504), July 20th, 2nd article:

“今後諺文勿敎勿學, 已學者亦令不得行用。 凡知諺文者, 令漢城五部, 摘告。 其知而不告者, 幷隣人罪之”

“In the future, do not teach Hangul, do not learn Hangul, and people who have already learnt Hangul must not use the language. People who doesn't report on the fact that who knows hangle will be punished along with the neighbors.”

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The 10th year of Yeonsan-gun(1504), July 22th, 7th article:

“諺文行用者, 以棄毁制書律, 知而不告者, 以制書有違論斷。 朝士家所藏諺文口訣書冊皆焚之, 如飜譯漢語諺文之類勿禁。”

“People who use hangle will be harshly punished by ‘damaging document law(棄毀制書律)’. People who doesn't report on the fact that who knows hangle will be harshly punished by ‘violation document law(制書有違論)’. Burn all books of Hangul and Gugyeol[*1],which are in the possession of the official’s house.”

*1...Gugyeol is a system for rendering texts written in Classical Chinese into understandable Korean.

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After the “Hangul ban”, some people who used hangle were panished by Yeonsan-gun. And some Hangle documents were found but the officials can’t distinguished who’s by handwriting. So he made all the people who learnt Hangle write four books for handwriting analysis. Yeonsan-gun “the tyrant” worked toward the unreasonable reign.

Well, After Yeonsan-gun was dethroned, Jungjong of Joseon, who succeeded Yeonsangun's half-brother, ruled Korea. As a result, was Hangul “the pride of Korean” restored? ...No, such a situation never happened in Korea.

The 1st year of Jungjong(1506), November 4th, 11th article:

“革諺文廳。”

“Close Eonmun-cheong(the institution of the Hangul study).”

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He easily closed the only public institution that studied Hangul.

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その5


奈良

日本の政治において最も深遠な変化は、聖徳太子の十七条憲法における中国式の(特に儒教的な)政治モデルの採用だ。聖徳太子の元で行われた改革は、大和朝廷が直面していた国内問題を解決しただけでなく日本の歴史も劇的に変えた。

日本の時代区分には、その当時に都が存在した地域の名前が付けられる。710年、都は奈良の北部に遷された。中国の都・長安に倣い、厳密な格子状にレイアウトされた都市が慎重に設計された。その名は、恒久的な首都を意味していたがわずか80年後に再び遷都した。

とはいえ奈良時代の日本は、基本的に村ベースの農耕社会であった。多くの日本人は竪穴式住居に住み、自然神や先祖を信仰していた。中国の都をモデルとした首都の設計は、日本の貴族たちを庶民から劇的に疎外することとなった。この村社会・竪穴式・神信仰の世界は、宮殿都市・絹・富・漢字・中国思想・仏教の世界へと成長した。奈良の都は、日本の貴族が、それまでの氏族から決定的に異なるものになったことを象徴している。

奈良時代における最も影響のあった文化的発達は、仏教の隆盛である。唐から輸入した複数の仏教宗派が首都のあり方を形作った。仏教は大部分が首都のみの現象であり、これは平安時代に入っても同様であった。しかしこの時代の仏教の活気は、日本の政治に仏教が緊密に統合されることにつながった。奈良時代の天皇たちは特に、金光明経と呼ばれる経典を深く崇敬していた。この経典によって仏陀は、単に歴史上の一人物としてでなく宇宙の法や真理として確立した。「善悪を判断できる智慧を万人はもっている」「適切な仏教生活を送る人物に成ることが生の意味である」「政治的には、全ての人間界の法は宇宙の究極の法を反映すべきである」と、この経典は主張する。しかし法は、物質世界の事象であるがゆえに絶えず変化していくものである。この考えが日本の君主たちの統治の道徳規範となり、法やルールを状況次第で都合よく解釈する事への正当性を与えた。

奈良時代の天皇たちが仏教に対して抱いた信心は、日本文化への仏教の急速かつ劇的な広がりを担保した。日本に仏教が伝来したのは518年ではあるが、日本文化に確固とした地位を築いたのは奈良時代の間であった。

2011年7月9日土曜日

ハングル禁止令

朝鮮半島には、ハングルの使用が禁止されたという悲しい歴史がある。

”ミンジョクのホコリ”であるハングルが禁止されたのは、もちろん悪名高い日帝時代…、ではなく、中国への事大主義が極まった1500年代、李朝10代廃王・燕山君と11代王・中宗の時代である。

他ならぬ朝鮮王によってハングルが禁止され焚書されたことは、李朝の公式記録である『朝鮮王朝実録』にも明記されている動かし難い事実だ。

燕山 10年 7月 20日 2回目の記事
"今後諺文勿敎勿學, 已學者亦令不得行用。 凡知諺文者, 令漢城五部, 摘告。 其知而不告者, 幷隣人罪之"
「今後ハングル(諺文:オンモン)を教えるなかれ、学ぶなかれ、また既に学んだ者もこれを用いてはならない。ハングルを知る全ての者を摘告するよう漢城市内に発令せよ。それを知りながら報告しなかった者は、その隣人と併せて罰する。」
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燕山 10年 7月 22日 7回目の記事
        
“諺文行用者, 以棄毁制書律, 知而不告者, 以制書有違論斷。 朝士家所藏諺文口訣書冊皆焚之, 如飜譯漢語諺文之類勿禁。
「ハングルを使用した者は棄毀制書律[*1]をもって、それを知りながら報告しなかった者は制書有違論[*2]をもって断罪する。朝士家に所蔵されるハングル書・口訣書[*3]はすべて焚書せよ。漢語をハングルで翻訳したものの類は禁ずるなかれ。」

*1,*2...ともに法律名
*3..口訣とは、漢文の間に書き入れて漢文を朝鮮語式に読むための補助的手段のこと。日本の漢文訓読(返り点・ヲコト点)と類似している。
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この”ハングル禁止令”ののち燕山君は、ハングルを使った人間を処罰したり、ハングルで書かれた書を見つけたがみな筆跡が似たり寄ったりで犯人を特定できなかったり、その対策としてハングルを学んだ人間にかたっぱしから筆跡鑑定用に本4冊分の文字を書かせたりと、暴君の名に恥じない無茶な治世に邁進した。

さて燕山君が廃位となり、異母弟である中宗が11代王として立つと、「ミンジョクのホコリ」であるハングルは一躍大復活…、したりしないところが朝鮮で…

中宗 1年 9月 4日 11回目の記事
"革諺文廳。"
「諺文庁を廃止する。」
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とハングルを研究する唯一の公的機関をあっさりと閉鎖したりするのである。




関連リンク

ハングルを普及させたのは朝鮮総督府である 3 - 産経応援
http://www.freeml.com/bl/8827150/18475/

ハングル・朝鮮史教育の禁止 - ぢぢ様玉稿集「大日本史」番外編朝鮮の巻
http://mirror.jijisama.org/syokuminti2.htm#hanguru

2011年7月8日金曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その4

神道
徳川時代(1600-1868)の日本の思想哲学をみれば、「神道」こそが「日本」というものを体現している。徳川の"啓蒙"は「国学」を学ぶ思想家集団に活気を与えた。国学は大雑把に「土着文化復興主義(nativism)」「日本学」「先住民文化研究学」と翻訳できる。しかし国学は、日本学という用語から連想されるような無味乾燥な学術分野ではない。外国からの影響を受ける以前、とくに中国により日本文化が"堕落"する以前に存在した本質的な日本の特質を回復しようという確固とした哲学的・文学的・学術的な取り組みなのだ。本質的な日本の特質を回復するとは、何が日本由来で何がそうでないかを見極め、日本文化をさまざまな海外の文化、つまり儒教(中国)・道教(中国)・仏教(印中)・キリスト教(西欧)などから分離することである。国学者はその活動のほとんどを、断片化された文書と孤立した無関係の大衆宗教の習慣から日本の土着宗教である神道を復興することに注力した。

こんな前向きな姿勢にも関わらず、神道はおそらく日本の土着宗教ではないだろう。というのも「日本人」は日本の土着民ではないからだ。神道は多種多様で無関係な宗教や神話の集合体のように見える。実際のところ「神道」と呼べる確固とした一つのものがあるのではなく、神道というカテゴリの元に集められた数々の宗教的カルトがあるのだ。神道という名前自体も誤解を与えやすい。霊的な力や神性を意味する「神(shen)」と、道や進路を意味する「道(tao)」という二つの中国語を組み合わせたこの言葉が初めて使われたのは近世が始まってからだ。大和言葉では「随神(かんながら)」という。初期日本の宗教を神道と呼ぶことは、身の毛もよだつ耐え難い時代錯誤だ。

神道の原始的性質と由来を突き止めるのは至難であるが、いくつかの一般的主張をすることは可能だ。第一に、初期神道は部族宗教であり、国家宗教ではなかった。韓国から日本へと渡ってきた各々の部族や氏族は、緊密な中央集権国家に組織されたのちでさえ、各自の神道の教えを保ったのだ。

第二に、全ての神道宗派は、一般に神性を意味する「神(かみ)」を信仰する。各々の氏族(政治的・軍事的・宗教的構成単位)は、氏族の始祖や創立者であると見なされる一柱の神を信仰する。氏族が分裂するときは特定の神への信仰も連れて行く。ある氏族が別の氏族を征服した場合、負けた氏族の神は勝った氏族の神に取り込まれる。神の成り立ちを突き止めるのは難しいが、最初の神々は創造神である天・地・冥界の神々であると見なされている。すべての神道宗派は、その最初期のものであっても、非常に発達した創造神話を持っていたようだ。しかし「神」は、先祖の霊から存命中の人間・特定の地域・村落・動物・植物・地形にいたるまで、あらゆるものにある種の神性を与える。実際、この世のあらゆるのものが不可思議で、壮大で、人生に影響をあたえるものだと考えられているのだ。これは初期日本人が、氏族固有の神だけでなく、無数の先祖・霊的存在・神なる自然の力に自分たちは支配されているのだと感じていたことを意味する。神性の潜在性の一例としてこんな話がある。旅の途中で嵐に遭遇したある天皇が、彼を歓迎するように軒下で手招きする猫に出会った。この尋常でない現象に興味をひかれ、天皇は馬から降りて軒下に近づいた。軒下に着くやいなや彼の馬が立っていた場所に雷が落ち、馬はたちまち死んでしまった。この故事から猫は、神道において慈悲と保護の神として崇拝される。日本のレストランに立ち寄れば、災いから建物を守る磁器製の招き猫を見つけられるはずだ。[*1]

第三に、すべての神道はある種の神社信仰に関与している。最も重要な場所は日本海沿岸に位置する出雲大社だ。元来これらの神社は木々に囲まれた清浄な地(神籬・ひもろぎ)か、岩に囲まれた清浄な地(磐境・いわさか)の一部だ。神道の神社は通常、地面から高く作られた一つの部屋(あるいは部屋のミニチュア)があり、中に物が納められている。ある者は神社の中にいる神を信仰する。社屋の外には「鳥居」と呼ばれる手洗場があり[*2]、ここは社屋に入る前に手や、ときには顔を洗う場である。禊と呼ばれるこの洗浄手順は、祈祷や呪文も含めて、神道における主要な儀式の一つである。またある者は、参拝することで神社自体を信仰する。信仰対象に身を捧げたり、供物を献上したりする。供え物は農作物から大金に到るまで様々だ。神道の祈祷(祝詞・のりと)は発せられた言葉が霊的な力を持つという「言霊信仰」に基づいている。正しく唱えられれば、祝詞は好意的な結果をもたらしてくれるだろう。

不幸なことに誰も記録を残さなかったため、初期神道がどういうものであったかを我々はほとんど知ることが出来ない。事実、初期神道は作り話だろう。初期神道と呼ばれるものは単に、中央集権国家の登場により数多くの無関係な土着宗教が衆合して始まったものなのだ。歴史は、この原来の宗教に神道以外のアイディアを膨大に付け加えた。仏教・儒教・朱子学は神道に重大な変化を与えた。

神道教義と神話についての偉大な2冊の書である「古事記」と「日本書紀」は、仏教が日本の国教であると宣言されてから200年後の西暦700年頃に書かれた。これらの記紀は、神道式創世記を含めた神道の神話のみしか記載していない。にも関わらずこの2冊は仏教と儒教の影響を強く受けており、神々の物語は、中国と韓国が大昔に考えた物語にひどく"汚染"されている。


*1…招き猫に関する逸話は筆者の勘違いと思われる。招き猫と雷雨に関連する言い伝えといえば、豪徳寺(東京都世田谷区)に伝わるものが想起される。曰く、彦根藩主・井伊直孝が鷹狩の帰りに豪徳寺にさしかかると、門前の猫が手招きをするような仕草をしたため、寺に立ち寄り休憩した。直後に雷雨が降り始め、これに当たらずにすんだと喜んだ直孝は、のちに豪徳寺に多額の寄進をした。和尚はこの猫が死ぬと弔いの墓をたて、後に招猫堂が境内に建立されたという。

*2…もちろん、神社の手を洗う場所は「鳥居」ではなく「手水舎」である。

2011年7月7日木曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その3

大和国

本州の南西最端にある大和半島[紀伊半島]は中国からの文化的影響が日本へと渡ってきた地域であった。始まりは西暦300年、本州の南にある奈良・大阪の地域で弥生文化の中から新たな文化が頭角を表した。この文化は「古墳」と呼ばれる巨大墳墓を建造し、そのうちのほとんどが現存している。これらの墳墓は、韓国の同様の慣例に習って築かれた。この時代の人々は、これらの墳墓にちなんで「古墳人」と呼ばれる。最初の200年間は、古墳を満たした埋葬品は鏡や玉などで、弥生時代の墓の物と同様であった。しかし西暦500年になるとこれらの古墳は鎧や武器で埋め尽くされた。そのためこの時代に、新たな文化の波の影響が韓国から日本へ押し寄せたのだと我々は知ることが出来る。

我々の知る日本最初の国家は「大王」を意味する「大和(やまと)」によって治められた。日本の史書によれば大和国が出来たのは西暦500年の頃で、この時期はすなわち、韓国からの文化的影響の新たな波が日本南部を伝播した時期であり、覇権が非常にゆるい時期であった。大和地方は大阪周辺の平野で、日本で最も肥沃な農業地帯だ。大和の王たちは難波(なにわ、現在の大阪)に首都を置き、富と力を王に与える貴族たちに囲まれながら覇権を楽しんでいた。彼らは、大和王の富と力を誇示する記念碑的な巨大墳墓を自ら建造した。鍵穴の型をした仁徳陵は、サッカー場の5倍の長さとクフ王のピラミッドの2倍の体積を持つ。

日本の史書によれば、役人や地方貴族に与えられた肩書きは韓国式役職であり、大和朝廷は、韓国の形式を模範としていた。弥生時代と同様に基本的な社会単位は氏であったが、軍事力に基づく貴族階級がそれに加わった。この軍事的貴族階級は、最も強力な集団の一つとして1868年の明治維新まで日本史に残り続けた。さまざまな家柄の貴族たちは互いに平和に暮らそうとしなかった。大和朝廷は、権力維持のために貴族たちの中で常に戦い続けた。

この時代、日本は朝鮮半島に駐留地を持った。韓国は文化的・政治的に最も劇的な時代にあった。半島は三つの大国に分断されていた。北に高句麗、東に百済、そして西に新羅である。百済は日本の戦略的重要性を理解し、大和朝廷と同盟を結んだ。大和と百済のこの繋がりは、初期日本史において文化的に最も重要なものの一つだ。百済王朝は日本に陶芸・冶金・芸術などの職人を送った。しかし彼らは同時に中国の文化も取り入れた。5~6世紀のころ韓国人は、日本人の名前を記録するために漢字を輸入したのだ。513年、百済王朝は大和朝廷に儒教家を送った。552年、百済は仏画・仏典・仏教家を送った。この3つの輸入品、すなわち文字・儒教・仏教は、弥生移民がそうしたように日本の文化を根底から変容させただろう。

聖徳太子

初期日本における最も重大な時代が女帝・推古天皇(在位592-628)の統治中に起こった。500年代末、百済と大和の間の同盟は破綻した。これは結果的に朝鮮半島における日本の所有地を失うことにつながった。日本へやってきた韓国移民団のみならず、強力な軍事力を持つ大和朝廷内の貴族たちが、大和の覇権に対して抵抗を始めた。

大和朝廷はこれらの問題に対し、中国式の政府を導入することで対応した。7世紀初めには、中国の政府・社会・哲学を学ぶために使節団を中国に送った。帰国すると、中国式に沿って朝廷を再編し、仏教を保護し、中国式の暦を採用した。これら全ての変更は、推古天皇治世時の摂政であった聖徳太子(573-621)によって実施された。しかし彼の最も重要な貢献は、604年に中国式の憲法を採用して書いた「十七条憲法」だ。これは日本語で書かれた最初の文章であり、日本史の大半を通じた日本政治の包括的な哲学的基礎を形作った。この憲法は(仏教的要素がいくらか含まれているとはいえ)儒教の教えに強固に基づいている。そこには、宇宙は天・地・人の3つの世界で形作られ、皇帝は臣民の福祉を保証するために天の意志によってその地位に置かれているという儒教的信仰が述べられている。日本史初期における「大王」は「天の皇帝」を意味する「天皇」へと変わった。十七条憲法は儒教的美徳に則り、調和・秩序・役人の道徳開発の重要性を強調している。

しかし聖徳太子は敬虔な仏教徒でもあった。憲法の第二条には「仏教の三宝を篤く信仰せよ」と明確に統治者に命じている。とはいえ憲法全体では儒教が圧倒している。

大化の改新

この憲法は、聖徳太子の出身一族である蘇我氏の治世に反対するクーデター勢力によって支持された。新たな天皇である孝徳天皇(645-655)は精力的な改革運動を始め、645年の「大化の改新」勅令でピークを迎えた。この勅令は大和朝廷の儒教家たちによる支援をうけて書き上げられ、日本の天皇制の基礎を形作った。統治者はもはや族長ではなく、天の命により裁定された天皇となり、絶対権利を行使するようになった。日本はもはや分断された国家群ではなく、中央官僚によって管理される天皇の属領の集合体となった。この改新令は全ての役人に対し厳しい変革を受容するよう要求し、また同じレベルのモラルと官僚としての能力を発揮するよう求めた。しかし日本は未だ、大部分が新石器文化であった。中国式皇帝の理念が根付くには、まだ数世紀かかるだろう。

2011年7月6日水曜日

Hayashi the samurai (Ryan Lam/林志栄) について

エセ武道関連のスレッドでちょくちょく見かける"Hayashi The Samurai"についてちょっと解説。

30 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2011/07/06(水) 09:01:09.03 ID:/bzoWh22
この人は世界の果てまでいってQに出てたよ



そこでは日本で学んだって言ってた。(TV用?)
でもやってる事はキュウリを頭と手に持たせて目を瞑ったまま切る、胡散臭い事だけ

英国のバラエティ「Britain's Got Talent」にて、ハヤシなる人物が人に持たせたキュウリを目隠しして日本刀で切るというパフォーマンスである。

確かに胡散臭いが、これを「偽武道」と断ずるのはいささか早急だ。
というのも、彼がやっているのは「居合い抜き」と呼ばれる日本の伝統大道芸だからだ。
ハヤシは、2年間の日本滞在経験があるため、この間に「居合い抜き」を学んだ可能性を否定出来ない。

柳亭風枝による居合い抜き:


ちなみに「居合い抜き」の見所は演者の刀さばきではなく、実演前の時間稼ぎの口上である。(…と思う)



プロフィール http://www.hayashi-samurai.com/hayashi.html によると

Hayashi, born Ryan Lam in 1973 in Dunnville, Canada, began his training in the martial arts in 1982 at the age of 9. From 1992 to 1997 he studied Languages and Linguistics at Carleton University in Ottawa, Canada, where he began his training in traditional Shotokan Karate.
In 1998 he moved to Tokyo, Japan, where he lived for 2 years, working as an English teacher and training intensively with the world's highest ranking masters at the World Headquarter School of the Japan Karate Association (JKA).

本名:Ryan Lam、漢字表記:林志栄。カナダ出身。林と書いてLamとスペリングしているので、先祖の出自は広東語圏だろう。
日本には1998年から2年間、英語教師として滞在している。空手道場(日本空手協会総本部か?)にも通ったようだ。この間に「居合い抜き」を学んだ可能性がある(または「居合い抜き」の演技をみて、自分でも出来ると自己流で真似たか)。

2011年7月3日日曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その2

先史時代

前3世紀まで日本人が定住していなかったとはいえ、30,000年前から日本に人類は住んでいた[*1]。日本は常に島であったわけではない。氷河期には陸の橋を通じて朝鮮半島とつながっていた。日本の四つの主要島も繋がっており、南部の島・九州は朝鮮半島と、北部の島・北海道はシベリアとつながっていた。石器時代の人類は、ベーリングの陸の橋を渡ってアメリカに渡ったのと同様に、この陸の橋を渡ったのだ。彼らの残した火おこしの道具から、彼らの到来は30,000年前であったと遡れる[*2]。

縄文

紀元前10,000年ごろから数千年に渡って、彼ら原住民は独特の文化を生み出した。いわゆる縄文文化だ。文字を持たない他の民族たちと同様、我々は道具の断片と人類学者・考古学者の想像ゆたかな推測によって彼らを知ることが出来る。縄文とは「紐の模様」を意味し、これは彼らが土器に紐の跡をあしらったことに由来する。これは人類史上最も古い土器である。土器は新石器人の特徴である。ところが縄文人は中石器人だ。[*3]すべての証拠は彼らが、非常に小さな部族単位で生活する狩猟・採集・漁猟民族であったことを示している。さらに彼らは土器に加え、女性の様に見える神秘的な像もつくっていた。古代の女神信仰だろうか?[*4]

縄文時代は6つの時期区分にわけられる。一万年という時間は無文字文化でさえ劇的に変えてしまうほどの長い時間だ。時期区分は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期である。

(略)

弥生時代

縄文文化は前11世紀に始まり、大陸からの移民の波によって駆逐される前3世紀まで日本で栄えた文化で、実質的には中石器文化だ。(とはいえ彼らは、土器製造など新石器の特徴も示している。)移民たちは弥生人とよばれ、彼らの起源は中国北部に広がっている。中国北部はもともと温暖で、森林・河川・降雨に恵まれた緑豊かな土地であった。しかし紀元前数千年のころから乾燥が始まった。ゴビ砂漠という世界最大級の砂漠を生み出したこの乾燥は、住民を南方と東方に追いやった。この人々は韓国に押し寄せ先住民族を追放した。
しかしこの新たな定住者たちもけっきょく中国北部からの新たな移民の波によって追い出され、多くが日本列島へと渡った。多数の言語学者によれば、中国北部・韓国・日本の言語が同一語族[アルタイ語族]であるのはこのためである。ゆえに中国北部で話されるモンゴル語もこの語族の一つである。またモンゴルが、遠く西側諸国まで征服したため、日本語が属する語族は、日本からヨーロッパまでの様々な地域で使われている。この語族の最西端はハンガリーのマジャール語であり、最東端は日本語である。

弥生人は農耕、青銅器・鉄器を用いた作業、そして後に神道に発展する新たな宗教を持ち込んだ。(神道という名が与えられるのはずっとずっと後のことである。)この移民が先住民族に対して何をしたのかは分からないが、いくつかの可能性がある。日本で広く受け入れられている学説によれば、弥生人の移民の波は非常に小さかったとされる。新技術を持ち込んだにも関わらず彼らが現地の縄文文化に同化したからだ。この説明によれば、特に神道に代表される日本の文化は太古から固有のものであった。縄文人はオーストロネシア語を話していたと信じる日本人もいる。すなわち、縄文人は南太平洋諸島民により近く、また現代日本語も太平洋諸島の言葉であると。

日本文化の起源がなんであれ、日本の言語・社会構造・宗教は弥生人の移住よりも過去には遡れないのは明らかだ。つまりあらゆる実質的な意味で、日本文化の新たな始まりは弥生時代なのだ。その変化は、産業革命による変化を遙かに凌駕するほど劇的だった。新たな移民により日本の文化は一夜にして変わったのだ。8000年に渡る文化的平穏は、一気に農耕時代へと引き上げられた。

弥生人は氏(うじ)と呼ばれる一族で構成される。これらの氏族は、戦闘の司令官であると同時に宗教指導者でもある族長に率いられた。各々の氏族には、族長が責任を負う一柱の神が関連付けられていた。全ての儀式は、族長によって演じられるこの神に関連付けられた。これらの神々は「カミ」と呼ばれ、自然やこの世の神秘的な力を象徴していた。弥生人はまた、神々によって世界が作られたという考え方を持っていたと我々は信じる。一つの氏族が別の氏族を征服するとき、征服される側の神を自分たちの宗教体系に吸収した。このようにして弥生人は、氏族のヒエラルキーが神々のヒエラルキーに反映された複雑な神々の殿堂をゆっくりと築きあげていった。

弥生人の生活は原始的であった。彼らは文字や貨幣のシステムを持たず、麻や樹皮から作られた服を主に着ていた。婚姻はしばしば一夫多妻制であったが、女性は氏族社会の重要な地位を担っていた。女性が族長や宗教指導者として任命されることさえ可能だった。この可能性は、日本について初めて言及した中国の歴史書によって支持されている。[*5]

氏族間の関係は複雑であった。ゆるやかな地域間の衝突が徐々に小国家のようなものを生み出した。しかし日本最初の国家が出来た地域は、西暦200年に中国の影響が届き始めた大和半島[紀伊半島]である。



*1...この教材の著者ロバート・フッカーによれば、縄文人は日本人ではない。本文において日本人とは、朝鮮半島からの渡来人である弥生人とその末裔を指す。

*2...火おこしの道具というのはよく分からないが、日本における30,000年前の人類居住の証拠として立川ローム第X層中の磨製石斧が挙げられる。

*3...石器時代の区分は、日本では旧石器・新石器の二区分法が、欧米では旧石器・中石器・新石器の三区分法が主流だ。旧石器文化は打製石器を用いた狩猟・採集・漁労の時代、新石器文化は磨製石器・土器を用いた農耕・牧畜の時代とされる。中石器文化は旧石器から新石器への過渡期であり、細石刃の使用が特徴である。

*4...女性型の像とはもちろん土偶のこと。世界中の石器時代の遺跡から乳房・臀部・腹部を強調した女性像が見つかっており、日本の土偶もこのうちの含まれると考える専門家もいる。(参考:http://en.wikipedia.org/wiki/Venus_figurines)

*5...『魏志倭人伝』にある卑弥呼・臺與。



[]内は訳者による注釈