先の裁判記録から分かる通り海東剣道は近年創作されたウリナラ武道である。このことは海東剣道創設者も認めており、また海東剣道連盟の”公式な”立場でもある。
しかし伝統武術の振りをするというのは実に抗いがたい魅力があるらしく、世界各地に散らばる海東剣道支部のサイトには未だに「海東剣道は、高句麗の士武郎(サムラン)に由来する伝統剣術である」などという妄想が堂々と掲載されていたりする。
今回は、そんな海東剣道の主張する歴史を翻訳してみようと思う。
海東剣道について
海東剣道とは?
海東剣道は剣術の韓国スタイルです。それは剣を用いて、大規模戦闘を想定した一対多の戦闘と一対一の戦闘用に開発されました。
とはいえ、剣を用いた格闘戦の時代は終わりを告げました。剣の道を学ぶことは、社交儀礼を身につけた古えの戦士たちとつながるため、我々の内なる戦士の魂を育むための道です。海東剣道を学ぶことはあなたの体と心と精神を磨くための素晴らしい方法なのです。
海東剣道の稽古は4つの主要な領域から成ります。
・Kibon Dongjak - ここでは、生徒は基本の構えの訓練と木剣を使った斬撃に励みます。
・Gyukgums - ここでは生徒はパートナーと共に、あらかじめ決められた攻撃と防御の流れの学習に励みます
・Gumbup - ここでは生徒は流動的な動作による数千通りの動き方や切り方を学びます。生徒が習う形は彼らのランクに応じて決まります。
・Baegi - ひとたび黒帯を獲得し真剣を操る責任感と成熟度を示した生徒は、竹、藁マット、紙、果物など様々な標的の切り方を学びます。
海東剣道の歴史
海東剣道は、高句麗(BC37-AD668)と呼ばれる古代朝鮮に由来する武術です。白頭山の三池淵に道場を開いたSul Bong師[*1]によって創設されました。彼は弟子たちに愛国心、親孝行、年長者への尊敬、正義の行使の考えに基づく武術を基本とした剣術を弟子たちに教えていました。中でも優れたものは士武郎(Samurang)と呼ばれ、彼らは常に不正義に対する戦いの第一線にいました。
士武郎の理念は:[*2]
・Jun(尊敬)
・Sa(師)
・Chung(重要性)
・Do(正道)
・Chung(愛国)
・Whoo(正義への畏敬)
剣術と道の知識を備えた戦士たちは高句麗の大王たちの大いなる助けとなりました。士武郎たちは将軍となり、好戦的な近隣諸国に対する防衛を手助けし、高句麗の安定と安全に多大な貢献をしました。高句麗の士武郎制度は、百済の騎士道として、また(テコンドーのもととなったテッキョンの発明者としてしばしば参照される)新羅の花郎道として導入され、多くの有能な戦士たちを訓練するために使用されました。
彼らがもたらした高句麗戦士の成功は、韓国史に前例のないことでした。彼らの統率力を通じ、古代中国王朝の隋による過去に類を見ない200万の侵略者を退けました。これらの戦士のおかげで、高句麗の人々は極東の支配国家として700年の平和を謳歌しました。平和と正義を守る士武郎の闘争心は価値ある精神として、また子孫の誇りとして残りました。
士武郎の歴史は大変興味深く、多くの議論がなされ、多くが未解明です。ジョシュア・マリノによれば、彼らのあり方は、中国による高句麗侵略後、日本のサムライの基礎となりました。中国の侵略により高句麗軍が敗れた後の668年、優れた士武郎の将軍達が日本に逃れました。彼らは中国語と日本語を操り、中国による民族浄化から逃れるため隠遁する僧侶となりました。彼らはそのような生活を続け、500年の時が過ぎ、彼らの子孫が日本の侍階級を作りました。更に詳しく知りたい方には、マリノ氏による素晴らしい著書「Kwanjangnim Original Haidong Gumdo」を読むことをお勧めします。
日本に渡らなかった士武郎は、組織を残し皆殺しから逃れるために山々に隠れ住むようになりました。中国の占領者は、韓国の伝統武術を関する全ての書物を消し去ろうと躍起になりましたが、戦士たちは密かに訓練をし、師から弟子へ彼らの歴史を口伝で伝えて守りました。1592年の秀吉による韓国侵略後、日本の剣道が韓国に根付きました。この侵略と、20世紀前半の日本による韓国侵略によって、韓国の伝統武術はほとんど痕跡を消してしまいました。しかし韓国の伝統武術を取り戻そうという新たな運動のおかげで、今日、多くの韓国伝統武術が再び韓国に根付いています。
後に海東剣道となる武術はおよそ40年前、ある郊外の山でチャンペクサン師範[*3]によって現在の世界海東剣道連盟会長であるキム・チョンホに指導されました。それまで韓国に広まっていた一対一に焦点をあてたコムドはあまりに日本的すぎるとキム師範は感じていました。彼は、テコンドーの徒手技術で発生するような煌きをもたらすために隠された韓国剣術を追求しました。
コムドに足りないものを補うため、キム師範は海東剣道を戦場や一対多のための技術に基づいて作り上げました。剣道やコムドの技術は一対一の戦闘に基づいています。キム師範が学んだ歴史的韓国剣術は双手剣などを含め数多くあります。これらの武術は全て、1798年に李徳懋将軍により韓国武術史保存のために書かれた韓国の武芸教本『武藝図譜通志』の中に見つけられます。鋭刀、提督剣、双剣などが韓国の歴史的剣術に含まれます。海東剣道はこれらの剣術各々に、10-15の形を作り加えました。これらは海東剣道の公式の形となりました。そのため、海東剣道の修行者は双手剣法、鋭刀剣法、Shimsang剣法、本国剣法、提督剣法、海東剣法などを学びます。
受け、斬り、突き、格闘、腹式呼吸といった海東剣道の基本技術とその基礎は、高句麗の士武郎が高句麗史上最強の戦士となる手助けとなりました。そのため、海東剣道が最も重要視するのは、日本剣道の単純さでも、中国カンフー剣術の複雑さでもありません。むしろ最も現実的な剣術としてのプライドをもっているのです。中国が漢から唐へと移り変わり、東夷族など多くの国々が盛衰する一方、700年続いた古代高句麗の存在は決して小さなものではありません。
高句麗王朝からほぼ1300年後、海東剣道によって韓国剣術の壮大な歴史が取り戻されました。韓国の歴史の生徒として、私たちは高句麗に多くの愛情を持ちながら、しかしその愛情を満たす程の知識を持っていません。それ故に海東剣道の創始者は、北の地を700年間支配してきた大高句麗の末裔として、それを学ぶもの全てにいにしえの士武郎の意思を引継ぎ、海東剣道を通じ高句麗の精神を世界に教えて欲しいと願うのです。
*1…Sul bong師匠というのが何者かわからなかった。
*2…チャンペクサン師匠という人物は創作であると言われている。ペクトサン師匠と呼ばれることもあり、どちらの名前も、朝鮮最高峰の「長白山/白頭山」の朝鮮語読みである。日本人の感覚で言えば、「私の師匠はマスター・フジヤマです」というようなレベルで、彼らの嘘が如何に安直であるかをものがたっている。
*3…この士武郎の理念というはちょくちょく変わるようで、この他には「忠・孝・礼・義・信・智」の6つだったり「忠・孝・礼・義」に4つに減ったりする。元ネタは儒教の徳目(仁・義・礼・智・信、および孝・悌・忠)
翻訳元:www.hdgdpanam.com/AboutHaidongGumdo.aspx