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2012年1月1日日曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「鋭刀」(2)

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『夢渓筆談』に曰く、「世間では鍛鉄、つまりいわゆる鋼は、熟鉄を折り曲げ、生鉄(俗称水鉄)をその間に入れて泥で封じて鍛えたものだと言う。鍛えて溶かしてお互いにまじれば団鋼または潅鋼と呼ばれるが、これらは偽の鋼でしかない。このことは私が磁州(宋京東路・彰徳府領内の州)の煅坊(煉鉄所)に出仕したときに初めて分かった。凡そ鉄の中の鋼とは、麺の中の筋ようなものである。百余回火に入れ鍛えると、鍛えるごとに軽くなる。そのように鍛え続けて斤両が減らなくなるに至ったものが、則ち純鋼である」

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『本草綱目』に曰く、「鋼鉄には三種類がある。生鉄に熟鉄を交ぜて鍛錬させて作ったもの、精鉄を百回鍛錬させて鋼鉄となったもの、西南海の山の中に生成される紫石英(玉に似た石で、五角形で両端が矢尻のような形状をしている)[紫水晶か?]のような模様のものである。刀・剣・斧・鑿などの多くの刃はみな鋼鉄だ。鉄の中には堅くて打てない部分があり、その名を鉄核という。香油(えごま油)を塗って焼けばすぐ消える。また曰く、土を浚って流水で溝に流し、これを灌田に引き入れると、油のようなまた泥のような形状の、色は黄金で甚だ腥烈なものがたくさん出てくる。冬に取り集めて、柔鉄が焼かれて赤くなった所に二・三回入れれば堅くなり玉をも切ることができる」

『武編』に曰く、「逹子(撻子とも言う。韃靼・契丹の西北の方に住む部族で、沙陀の別種から出た。今は蒙古を以て逹子と為すなり)は錬鉄に馬糞の火を用いた。鉄には生鉄と熟鉄がある。生鉄は火にとけ鼓鋳鉄となり、鍋釜となる。熟鉄は残物が多くて火に入れれば豆査(豆腐滓)のように流れない。冶工が竹夾(音は甲、左右で持つハサミ)でつかみ出して木棒で撞[つ]く(杖で打つこと)と塊になる。あるいは竹刀で爐中を掻き開いて刀と鉄砲を作るのに使う。

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その名称は三種類がある。第一に方鉄、第二に把鉄、第三に條鉄だ。その使い方には精と粗があるが元々は同一のものだ。鉄工が泥漿を焠[にら]ぎ(音は倅、意味は刃を焼き水に入れることで堅くなること。淬とも)、極度に焼かれた火に入れれば鉄滓が出る。鉄捶で打てば残物が落ちて浄鉄が集まる。練り初めの鉄は色が白くて音は鈍重だ。練り続ければ色が青く音が清くなる。熟鋼は直接産出するところは無く、生鉄と熟鉄を一緒に鋳て高温に熱して待つと生鉄は流れだそうとし、生鉄が塾鉄の上を擦れていく(擦:音は察、意味は急に摩擦すること)。この鋼鉄は生鉄と熟鉄が合わせて鋳錬を経ればまた一つになる。砂・土・鉄滓が少ないため鉄を扱う工錬が易しくなる。
先ず毛鉄は塊を罏に落として火を入れ、少し赤くなるまで待って鉗子で取り出し、稲藁の灰にまぶす。鉄身を罏に戻して火を大いに煽って、透けるような赤みを発し火花を散らすようになったら鉗子で取り出し槌で叩いて板状に成形する。じゅうぶんに鋼を刻むために鑿(小鑿)で、たてよこに深く刻み目を入れる。 その刻み目で等間隔にいくつかに分けられるようになる。

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このようなことを三度するが、最初は一回取り出して一度焼き入れ、二度目は二回合わせて一度焼き入れ、三度目は四回合わせて一度焼き入れする。その蘸 (音は蹔、物を水に投げ入れること)、灰、鑿、刻みのすべてが前と同じ、その色は銀色を凌駕して、その声は清くてしかも風情がある。」

『倭漢三才図会』に曰く、堝(音は戈。堝とは金銀を沸かして製錬すること)は腹に小さい孔を穿てば鉄が穴から流れ出る。 別に中に土を塗った箕形の鉄器で受ける。 『本草』が謂うところの生鉄、倭人が云う銑がこれだ。 七日間続ければ銑鉄が流れ去って鈍鉄が底に充填して大きな塊となる。 再三溶かして拍(鍛錬すること)すれば熟鉄になる。 11日間溶かせば色が爽やかで堅くなり剛鉄という。 再三鍛練して剣の刀身を作る。 ゆえに刃金と称す。 生鋼は播州の『本草』で生産されるのがいちばんで、雲州の印賀および伯州、作州がこれに次ぎ、石州の出羽がやはりその次になる。 そもそも鍛錬にも等級がある。

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刀剣を作るならば15度、小刀は5度溶かして鍛錬して作る。 度が行き過ぎれば鉄の性質が変性して柔鈍になる。」

2011年12月23日金曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「倭剣」(1)

cp0303000009_00001 (734x1024) 【増】茅元儀曰く「日本刀は大小長短、同じものがない。人ごとに長刀一振りを有し、これを佩刀という。また、雑用に便利な小刀一振りをその刀の上に差す。さらに、一本の刺刀があって、長さが1尺のものを解手刀という。長さが一尺を越えるものを急抜というが、これもまた刺刀の類いだ。
cp0303000009_00002 (744x1024) この三者を随時身に着け、必ず用いる。刀は極めて強く鋭く、中国刀では及ばない。刀の大小を問わず必ず柄の片面には名を刻み、もう片面には字号を刻む。時代を通じてその良し悪しを判断するためである。槍剣もまた然り。日本の上庫刀は、山城君(関白)全盛の時代に各島々の名匠を全て集めて倉の中に閉じ込め歳月を限らずその工巧を尽くさせたものだ。このため上庫刀と名付けられた。中でも寧久と号するものがより一層良い。」

【案】 三代の時代には、鍾・鼎・戈・戟など大小の武器を用い、全てに款識(『史記』孝武帝紀に「鼎文鏤に款識がない」とある。 注:款は刻。 識は記。楊慎曰く「文に、凸は陽刻で刻むこと、凹は陰刻で記すこと」)を具えた。『礼記』月令には「物に工人の名前を勒(刻)する」と記され、中国の工匠は今でもこれを遵守する。倭人が製造したものもそうである。

我国は良し悪しを記録した資料がなく評価できないので、勧懲を施しようがない。六工(土工・金工・石工・木工・獣工・艸工)を掌握する者がはやくこれを正し、製造年月・姓名・尺寸・斤両を整えて記録するようにし、過程を考察して方式を区別しなければならないのではないだろうか。

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日本の後鳥羽院(倭の偽皇の号)の時、諸国の良工を召して鍛冶場を開いた。 宗斤・国頼・吉光・国友・国吉・国綱・国宗・正宗・貞宗・定秀・行平・近忠・延房・兼定・国行などは皆が霊剣と称し、この名が彫られたものは全て名剣である。

茅氏が論ずるところを併記し、広く考察する資料とする。

『倭志』に曰く、「倭賊は勇敢だが愚かで生死を重視しない。戦いのたびに、いつも裸体で三尺の刀を手に舞いながら前進してくると防ぐことができない。」

2011年10月11日火曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「鋭刀」(1)

cp0303000008_00001.jpg (745x1024) 【増】本名 短刀
【原】今日の制度では環刀は刃長が3尺3寸、柄長1尺、総重量1斤8両。(【案】武備志によれば短刀だが湾曲していて、我が国の還刀とすこぶる似ている。したがって両刃剣を共に図にのせる)
cp0303000008_00002.jpg (744x1024) 茅元儀曰く「昔の刀剣は戦闘に使うことができた。 ゆえに唐・太宗には千人の剣士がいた。今日では、もうその技法は伝わっておらず、断片的な文書は残るのみで、中に訣歌があるが、その説の詳細は不明だ。近ごろ好事者が朝鮮でそれを得たが勢法が備わっていた。もとより中国で失われたものを四裔で救っていたことが分かったので、西域の等韻(西域の僧・神珙が音韻に通じて撰述するなどした切譜)と日本の『尚書』(欧陽修の日本刀歌に、徐福が日本に渡ったときにはまだ焚書が行われていなかったため、今なお百篇の逸書が存在するが、中国に伝えるのを絶対に許さなかったので、世の人は古文書のことを知らなかった。書経・古書を徐福が持って行ってまだ日本にあると話したのは、おそらく口実だろう)と知れる。左の剣訣歌を載せる。

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摯昆吾晃太陽、
一升一降把身藏。
(左右四顧四劍)
(昆吾は、列子曰く、西海上には昆吾が多く、石を取り、鉄を冶り、玉を泥のごとく切る剣を作る。晃の音は胡廣切、意味は明るい)

搖頭進步風雷響、
滾手連環上下防。
(開右足一劍、進左足一劍、又左右各一劍、收劍。)
(滾の音は袠、意味は顔を流れる水)

左進青龍雙探爪、
(縮退二步、開劍、用右手十字撩二劍、刺一劍。)
右行單鳳獨朝陽。
(用左手一刺、跳進二步。左右手各一挑、左右手各一蓋。右手一門轉步、開劍作勢。)

撒花蓋頂遮前後、
(右滾花六劍、開足。)
馬步之中用此方。

蝴蝶雙飛射太陽、
(左足進步、右手來去一劍。左足進步、左手一刺一晃。)
梨花舞袖把身藏。
(退二步、從上舞下四劍。)

鳳凰浪翅乾坤少、
(進右足、轉身、張兩手、仍翻手。左手一劍、右手來去二劍、左手又一劍。開劍、進右足。)
掠膝連肩劈兩旁。

進步滿空飛白雪、
(從下舞上四劍、先右手。)
回身野馬去思鄉。
(右手抹眉一劍、右手抹腳一劍、抹眉一劍。左手抹腰一劍、一刺、右劍一手收劍。)

朝鮮勢法は初めに眼法、撃法、洗法、刺法を習う。撃法には五つある。すなわち豹頭撃、跨左撃、跨右撃、翼左撃、翼右撃だ。刺法には五つある。すなわち逆鱗刺、坦腹刺、双明刺、左夾刺、右夾刺だ。格法には三つある。すなわち挙鼎格、旋風格、御車格だ。洗法には三つある。鳳頭洗、虎穴洗、騰蚊洗だ。
また曰く、昔は兵は必ず剣について言及したと言う。今はもう陣において使わないから失伝してしまった。私が遠く海外に聞き込みしてその方式を得てきたので、また緩くなってはいけない。刀剣装飾は銀、鍮石、銅粗などを混ぜた品だ。近ごろ辺臣が棟が厚くて短い剣を製造することを要請した。軍ではそれはすこぶる使いやすい。」

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【増】清異録に曰く「唐の剣は全て鞘が短くて、常に脇の下に身に着けるので、これを腰品と呼ぶ。」
【案】環刀はすなわち中国の腰刀だ。 旧譜[武藝新譜]には双手刀、鋭刀、倭剣、双剣、提督剣、本国剣、馬上双剣などが載っている。それぞれ名前が同じでないといえども、用いるのは全部腰刀だ。両刃を剣といい、片刃を刀という。後世、刀と剣は混同された。 しかし古代には剣を崇め、後世には刀を崇めた。これは武器としての利鈍に関係なく、おそらく習俗が同じでないためだ。
事物紀原が云うには「燧人が刀を作ったがこれが刀の始めなり」
管子が云うには「蚩尤が剣を作ったがこれが剣の始めなり」
釈名が云うには「劒は撿なり。 非常の時に防備することで両面に各々中ぐらいの高さの刃脊がある」というのがこの剣の形式だ。
中国は剣術を伝えずとも、その武器は稀に残っている。茅元儀が剣術が伝授されないことを深くなげいて自らその劒譜を撰述し、また、その図を伝えて一度は朝鮮で秘訣を得たと話し、一度は海外で方式を得たとも話すが疑わしい。
cp0303000008_00005.jpg (744x1024) 『周礼訂義』に曰く、「およそ剣の制度には鋒、刃、脊(棟)、鐔(読みは尋)、鋏(ハバキ)がある。鋒は鋭くする部分で、刃は切る部分で、脊は幹になる部分であり、鐔は根元の部分であり、鋏は鐔に附いている部分だ。」
方言に曰く、「刃先を鋒といって、その根本を環といって、その室になるところを削(読みは笑、鞞[さや]のこと)とし、室口の装飾を琫として、その下の末端の部分の装飾を琕(補頂反)という。」

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茅元儀曰く、「鉄は多く鍛練(銅鉄を扱って煎って成熟させること。作煉に通ず)しなければならない。刀には純粋な鋼鉄(錬鉄)を使う。背を起こして平削を用いて平たく削り、始めて刃に至る。 刃を平たく研磨してこそ鋭い。 近ごろ匠人が刃の厚い部分をたたいて平たく研磨しないで横から折るにとどめてしまった。刃の両側の下がなめらかでなければ刺しても深く入らず、刃先が一度すりへればすぐに頑鉄になる。刀は手と同じように軽くなければならない」(【案】これは藤牌に使う腰刀の制度といえども、練磨の方法がすこぶる備わっているから記録する。)

2011年9月27日火曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「提督劒」

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【増】鋭刀と同じ、すなわち腰刀である。
【案】提督剣14勢は李如松(字は子茂、鉄嶺衛人で寧遠伯・成樑の子。官位は太子太保で諡号は忠烈。五世祖・英は本来朝鮮の楚山人だが明国に内附した)がその法を伝えている。
神宗朝[万暦帝・1572-1620]の提督で、壬辰倭乱時にわが国に来た者は、劉綎(字は省吾、南昌人で都督・顕の子。官位は総兵)、 麻貴(大同右衛人で官位は右都督)、董一元(宣府前衛人で官位は太子太とみられる)、李承勛(字は錫庸、処州衛人で官位は総督)、 陳璘(字は朝爵、翁源人で官位は都督)などだが、諸人では劉が大刀で天下に名を知らしめた。

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『懲毖録』に曰く、「癸巳(先祖26,1593)の夏に病気で漢城の墨寺洞に横になっていたが、明の武将・駱尚志(余姚人であり、左参将としてわが国にきた。 千斤を持ち上げることが出来たので駱千斤と呼ばれた)が私が横になっている家を訪問して因って言うには“朝鮮は微弱で、しかも倭賊はまだ朝鮮の土地にいる。我々明国の兵が帰国しないうちに兵法を習えば国を守ることができます”と。私がすぐに状啓[王への報告書]を上げて禁軍・韓士立を招いて70人余りを募って駱公の元で教えを求めるようにすると、駱公は麾下の張六三など10人を選んで教師にして、槍、剣、狼筅などの技を練習させた」(『懲泌録』録後雑記 9版;『西厓全書』 1巻810ページ)。
駱公は李提督の部下だったので、提督剣の名称がここから出ただろう。中軍・李源(李如松の5世孫)曰く、「提督が我が国にいるとき通津琴氏の娘を取って侍姫としたが、妊娠をすると剣を与えて『息子が生まれたら名前を天根にしなさい』と言った。 後に天根を生み、天根の子孫が巨済にたくさん住んでいる」
英祖丙寅年(1746, 英祖22)に統制使・李彦祥が天根の玄孫・茂春の元でその剣を見つけ、この故事を鐔に刻んで柄と鞘を作り、今ではその剣は再び提督の家に戻っている。

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刃長は3尺4寸、鐔は9寸であり二つの穴がある。刃の幅は1寸5分であり、上殺は2分、背厚は3分5厘、末殺は1分5厘だ。刀面には「張」の字が円中に楷書で陽刻されている。上にある縦の釁(音は許勤切、意味は痕)は蜿蜒(『焦氏易林』によれば "蛇がくねくねのたくりながら進む" という意味)とした細い金で今でもさびがついていない。
これはたとえ撃刺法では無いとしても提督剣にとって喜ばしい。故にそれを取って絵と同時にその故事を記す。

2011年9月23日金曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「双手刀」

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【原】○本名 長刀、俗称 用劒 平劒。

【原】戚継光曰く“刃長5尺、後に銅護刃1尺を用いた。 柄長1尺5寸、併せて6尺5寸、重量2斤8両。この刀は倭寇が中国を侵したときに初めて見られるようになった。彼らがこの刀を手にして舞うと光閃の前に、我が兵たちは気を奪われ、倭人は一丈余り一躍し、遭遇した者は両断された。これは刀が鋭利で、しかも両手で使用するので力をこめられるためだ。今日でも、(刀だけ)単独で用いては防御できない。ただ鳥銃を兼用すれば防御可能で、賊が遠ければ鳥銃を発射し、近ければ刀を用いる。

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【案】本名は長刀だが、今日では双手刀と呼ぶことが増えたのは双手(両手)を使うという文があるためだ。今日ではこの劒制は使わないので、腰刀で代用して稽古する。ただしその名前だけが残った。茅元儀曰く“長刀は倭奴の制度である。 歩兵には非常に有利な武器だが、昔は備えられていなかった。”しかし『中華古今注』に曰く“漢世伝に高帝が白蛇を斬った剣の長さが7尺だった”とある。『漢書』広川恵王越(漢景帝の息子)に“孫去が7尺5寸の刃物を作った。”とある。『後漢書馮異伝』に“車駕が河南に達して送別する時、7尺もある玉具劒を下賜した。”とある。『刀劒録』には“周国昭王が五振りの剣を鋳造したが各々五嶽の名前を付けた。鎮嶽は長さ5尺だった”とある。石季龍(五胡後趙の石虎、字は季龍)の剣は長さ5尺だった。慕容垂(五胡の後燕)の二振りの剣は長さが7尺で、一振りは雄で一振りは雌だった。そうであるならば、長刀の由来もやはり古い。