2009年9月1日火曜日

武芸図譜通志(日本語訳)

1.武芸図譜通志とは
武芸図譜通志は、李氏朝鮮代の正祖14年(1790)に編纂された、朝鮮最古の武芸書である。
序1巻、本5巻の図説入り武芸書で、現在韓国が伝統を主張するウリナラ武道の殆ど全ては本書その由来が帰着するという重要書籍である。その引用範囲の広さたるや、高句麗の万能壁画と比べても遜色が無い。

朝鮮史においてこれほどの重要な書籍でありながら、なぜか本邦では広く知られていない。その原因は、いま世界で持て囃されている日本の伝統武道なるものがおしなべてウリナラ起源であることを証明する本文献を、日本の国粋主義者どもが認めたがらないためであり、まさか序巻の1ページ目にいきなり「ウリナラには弓術しか伝わってないニダ!」と書かれていたり、2ページ目に「中国から武芸本を買ってきて、ウリナラにきた中国人に片っ端から本の内容を聞いた二ダ」とか書かれているせいだなどと考えるのは全くの下種の勘ぐりであることは言うまでもない。

・・・。

えーと、そんなわけで、本書は反チョや反ウリジナル陣営にとっても貴重な基礎文献になると思われるので、摂訳を試みようと思った次第である。

が、IT先進国・韓国にあるまじきことに、ネットを潜って方々探してみたのだが、ついぞ原本・写本のデジタルアーカイブの類を見つけることが出来なかった。仕方が無いので、孫引きとなることを承知で、弘齋全書(純祖14年・1814)に収録されている「武芸図譜通志諺解」より、序巻の内容を機械翻訳・微修正してみた。

2.武芸図譜通志序 日本語訳

我が国の軍隊訓練制度は、三軍は郊外で、衛士は禁苑で訓練を受けるようになっており、禁苑での訓練は光廟時から盛んに行われた。 しかし訓練は弓を撃つこと一つだけで、槍や剣、その他を扱う方法のようなものはなかった。


宣廟が倭寇を平定したのち、戚継光が書いた《紀効新書》を購入させに訓局の郎官、韓僑を送り、我が国に来た中国将士らをあまねく尋ね歩いて、棍棒など六種類の技芸を扱う方法を学ばせ、それを《図譜》としてお作りになった。

その後孝廟がこれを受け継ぎ、しばしば内閲をしては、何種かの手技はその訓練をより一層強化しろとおっしゃり、それを契機に撃刺の法が多少発展を見た。 しかしそれでも項目が6技より増えることはなかった。

ついに先王朝[訳注:英祖]の己巳年にきて、小朝[訳注:正祖荘献世子]がすべてのことを代わりに処理しながら、竹長槍など12技をさらに加えて《図譜》を作り、前者の6技とともにあわせてで訓練をするようにした。 これは《顕隆園志》に書かれており、十八技という名前もその時初めてできたのだ。

私がその儀式典刑を受け継ぎ、そこにまた騎芸など6技をさらに加えて24技を作った後、考証に明るい者二、三、四人を選んで《原図譜》と《続図譜》を一つにまとめ、また義例も正し、その源流にも解釈を付け、制度もまた議論して決め、一度本を開けば武芸に関するすべての物、およびそれを利用する技芸と妙術らを一度に知ることが出来るように整え《武芸図譜通志》と名付けた。

この本には撃刺に関する法がさらに増補され、さらに詳細に説明されただけでなく、禁苑での訓練方法はより真詮になっていて、郊外訓練の指南になっている《五衛陣兵将図説》とあわせて、共に互いに経線と緯線になる程二つとも美しい特色を持っている。このことがどんなによい事だろうか。

しかし「行陣が先で、技芸は後」ということは兵家で普遍的な言葉だと私も知っているのに、それでも兵家では五教にあって技芸訓練が二番目で、行陣訓練が三番目であるのはなぜか?

太陽と月と星の運行をよく知り、形と作動と変化の要素にも円熟し、じっとしている時は石垣のようで、動いていれば風雨のようなものが行陣としては上手とすることだ。しかし内と外を直接攻撃する道具としては、何よりもまず手と足、そして器械が必須であり、無敵の行陣も結局は格子が上手くいくかに掛かっているならば、その視差を定めるところにあっても当然そうすべきであることではないのか。

今後この本が出てきたことを契機にして、中尉材官が日々龍虎の真法に慣れ、豼貅などの軍事らが各々強い弓をよく引くことができ、国家が継続的に人材養成をしようとする根本趣旨を破らないならば、これから億万年を置いて磨いていくべきである軍事教育を明示した私の意がよく反映されることができるところがまさにここにあると見る。 皆努力するべし。


3.注釈および参考サイト

http://www.itkc.or.kr/index.jsp?bizName=MK&url=/MK/MK_BOOKLIST.jsp%3Fseojiid=kc_mk_m007

(後ほど)

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