2011年12月23日金曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「倭剣」(1)

cp0303000009_00001 (734x1024) 【増】茅元儀曰く「日本刀は大小長短、同じものがない。人ごとに長刀一振りを有し、これを佩刀という。また、雑用に便利な小刀一振りをその刀の上に差す。さらに、一本の刺刀があって、長さが1尺のものを解手刀という。長さが一尺を越えるものを急抜というが、これもまた刺刀の類いだ。
cp0303000009_00002 (744x1024) この三者を随時身に着け、必ず用いる。刀は極めて強く鋭く、中国刀では及ばない。刀の大小を問わず必ず柄の片面には名を刻み、もう片面には字号を刻む。時代を通じてその良し悪しを判断するためである。槍剣もまた然り。日本の上庫刀は、山城君(関白)全盛の時代に各島々の名匠を全て集めて倉の中に閉じ込め歳月を限らずその工巧を尽くさせたものだ。このため上庫刀と名付けられた。中でも寧久と号するものがより一層良い。」

【案】 三代の時代には、鍾・鼎・戈・戟など大小の武器を用い、全てに款識(『史記』孝武帝紀に「鼎文鏤に款識がない」とある。 注:款は刻。 識は記。楊慎曰く「文に、凸は陽刻で刻むこと、凹は陰刻で記すこと」)を具えた。『礼記』月令には「物に工人の名前を勒(刻)する」と記され、中国の工匠は今でもこれを遵守する。倭人が製造したものもそうである。

我国は良し悪しを記録した資料がなく評価できないので、勧懲を施しようがない。六工(土工・金工・石工・木工・獣工・艸工)を掌握する者がはやくこれを正し、製造年月・姓名・尺寸・斤両を整えて記録するようにし、過程を考察して方式を区別しなければならないのではないだろうか。

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日本の後鳥羽院(倭の偽皇の号)の時、諸国の良工を召して鍛冶場を開いた。 宗斤・国頼・吉光・国友・国吉・国綱・国宗・正宗・貞宗・定秀・行平・近忠・延房・兼定・国行などは皆が霊剣と称し、この名が彫られたものは全て名剣である。

茅氏が論ずるところを併記し、広く考察する資料とする。

『倭志』に曰く、「倭賊は勇敢だが愚かで生死を重視しない。戦いのたびに、いつも裸体で三尺の刀を手に舞いながら前進してくると防ぐことができない。」

2011年12月17日土曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「双剣」(1)

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【増】刃長2尺5寸、柄長5寸5分、重量8両(【案】今は別に作らず、腰刀の中で最も短いものを選んで使う。 したがって絵は描かない)

『礼器図式』に曰く、「緑営(直隷と各省の漢軍営を緑旗と言った)の双刀は、左右に二振り持ち、全体の長さがそれぞれ2尺1寸1分、刃の長さが1尺6寸であり、幅が1寸。銎(『方言』に曰く、骹を銎と謂い、注には「すなわち矛刃の下口」とある。【案】刀の銎は円形だが、双剣はそれぞれ半円である。これは併せて一つの鞘に納めるためだ)は半円で、厚さは2分。一緒の鞘に納める。柄長4寸9分、木の台に赤いひもを巻きつける。末鉆(鉆の読みは覘。『正字通』曰く「二つの部品を鉄片で溶接したものや、角を鉄片で固定させた物をすべて鉆と言う」)は、鉄。(【案】緑営の双刀は最も短い刀とし、双刀をひとつの鞘に納めることで法式に値する)」

『武編』に曰く、「宋の太宗は、勇士数百人を選抜し剣舞をさせたが、皆剣を空中に投げその身を飛ばし左右から受け取った。その時ちょうど北戎(契丹)が使臣を派遣し御殿で宴会を施していたので、剣士を呼んで剣舞を披露した。上着を脱いで太鼓を打ち鳴らしながら刃物を振り回し、入っては跳び、投げては受けると、霜や雪のように白い刀が空中を満たした。蛮族の使者はこれを見て、顔に恐れの色が現れた。城を巡るごとに、剣舞をしながら武を誇示し、敵の群れ先導して城壁を上がってくるのを見て肝をつぶした」

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『元史』王英伝に、英(字は邦傑で益都人、官職は莒州千戸)は双刀を善く用い、刀王と号したとある。

『兵略纂聞』に曰く、「劉顕(南昌人で、官職は都督、劉綎の父)は、兜と鎧を着なくても敵に会えば両刀をかかげて跳躍するほどに敏捷で、刀を振り回すと刃が見えなかった」

【案】刀剣は、身を衛るために作った武器なので、昔は必ず法術があった。もし後世に譜訣があったならば、魯句践(戦国時代の邯鄲人、荊軻と巡游した)は、荊卿が剣術に粗略なのを嘆いただろう。(『史記』巻86「刺客列伝」)

周と秦からは考証することがない。しかし、『家語』に曰く、「子路が戎服で孔子に会い剣を抜いて舞いながら言った、“昔の君子は、剣で自分を守りました”」

『史記』に曰く、「項羽が劉邦と会った時、項庄と項伯が剣を抜いて舞った」

   

2011年10月11日火曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「鋭刀」(1)

cp0303000008_00001.jpg (745x1024) 【増】本名 短刀
【原】今日の制度では環刀は刃長が3尺3寸、柄長1尺、総重量1斤8両。(【案】武備志によれば短刀だが湾曲していて、我が国の還刀とすこぶる似ている。したがって両刃剣を共に図にのせる)
cp0303000008_00002.jpg (744x1024) 茅元儀曰く「昔の刀剣は戦闘に使うことができた。 ゆえに唐・太宗には千人の剣士がいた。今日では、もうその技法は伝わっておらず、断片的な文書は残るのみで、中に訣歌があるが、その説の詳細は不明だ。近ごろ好事者が朝鮮でそれを得たが勢法が備わっていた。もとより中国で失われたものを四裔で救っていたことが分かったので、西域の等韻(西域の僧・神珙が音韻に通じて撰述するなどした切譜)と日本の『尚書』(欧陽修の日本刀歌に、徐福が日本に渡ったときにはまだ焚書が行われていなかったため、今なお百篇の逸書が存在するが、中国に伝えるのを絶対に許さなかったので、世の人は古文書のことを知らなかった。書経・古書を徐福が持って行ってまだ日本にあると話したのは、おそらく口実だろう)と知れる。左の剣訣歌を載せる。

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摯昆吾晃太陽、
一升一降把身藏。
(左右四顧四劍)
(昆吾は、列子曰く、西海上には昆吾が多く、石を取り、鉄を冶り、玉を泥のごとく切る剣を作る。晃の音は胡廣切、意味は明るい)

搖頭進步風雷響、
滾手連環上下防。
(開右足一劍、進左足一劍、又左右各一劍、收劍。)
(滾の音は袠、意味は顔を流れる水)

左進青龍雙探爪、
(縮退二步、開劍、用右手十字撩二劍、刺一劍。)
右行單鳳獨朝陽。
(用左手一刺、跳進二步。左右手各一挑、左右手各一蓋。右手一門轉步、開劍作勢。)

撒花蓋頂遮前後、
(右滾花六劍、開足。)
馬步之中用此方。

蝴蝶雙飛射太陽、
(左足進步、右手來去一劍。左足進步、左手一刺一晃。)
梨花舞袖把身藏。
(退二步、從上舞下四劍。)

鳳凰浪翅乾坤少、
(進右足、轉身、張兩手、仍翻手。左手一劍、右手來去二劍、左手又一劍。開劍、進右足。)
掠膝連肩劈兩旁。

進步滿空飛白雪、
(從下舞上四劍、先右手。)
回身野馬去思鄉。
(右手抹眉一劍、右手抹腳一劍、抹眉一劍。左手抹腰一劍、一刺、右劍一手收劍。)

朝鮮勢法は初めに眼法、撃法、洗法、刺法を習う。撃法には五つある。すなわち豹頭撃、跨左撃、跨右撃、翼左撃、翼右撃だ。刺法には五つある。すなわち逆鱗刺、坦腹刺、双明刺、左夾刺、右夾刺だ。格法には三つある。すなわち挙鼎格、旋風格、御車格だ。洗法には三つある。鳳頭洗、虎穴洗、騰蚊洗だ。
また曰く、昔は兵は必ず剣について言及したと言う。今はもう陣において使わないから失伝してしまった。私が遠く海外に聞き込みしてその方式を得てきたので、また緩くなってはいけない。刀剣装飾は銀、鍮石、銅粗などを混ぜた品だ。近ごろ辺臣が棟が厚くて短い剣を製造することを要請した。軍ではそれはすこぶる使いやすい。」

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【増】清異録に曰く「唐の剣は全て鞘が短くて、常に脇の下に身に着けるので、これを腰品と呼ぶ。」
【案】環刀はすなわち中国の腰刀だ。 旧譜[武藝新譜]には双手刀、鋭刀、倭剣、双剣、提督剣、本国剣、馬上双剣などが載っている。それぞれ名前が同じでないといえども、用いるのは全部腰刀だ。両刃を剣といい、片刃を刀という。後世、刀と剣は混同された。 しかし古代には剣を崇め、後世には刀を崇めた。これは武器としての利鈍に関係なく、おそらく習俗が同じでないためだ。
事物紀原が云うには「燧人が刀を作ったがこれが刀の始めなり」
管子が云うには「蚩尤が剣を作ったがこれが剣の始めなり」
釈名が云うには「劒は撿なり。 非常の時に防備することで両面に各々中ぐらいの高さの刃脊がある」というのがこの剣の形式だ。
中国は剣術を伝えずとも、その武器は稀に残っている。茅元儀が剣術が伝授されないことを深くなげいて自らその劒譜を撰述し、また、その図を伝えて一度は朝鮮で秘訣を得たと話し、一度は海外で方式を得たとも話すが疑わしい。
cp0303000008_00005.jpg (744x1024) 『周礼訂義』に曰く、「およそ剣の制度には鋒、刃、脊(棟)、鐔(読みは尋)、鋏(ハバキ)がある。鋒は鋭くする部分で、刃は切る部分で、脊は幹になる部分であり、鐔は根元の部分であり、鋏は鐔に附いている部分だ。」
方言に曰く、「刃先を鋒といって、その根本を環といって、その室になるところを削(読みは笑、鞞[さや]のこと)とし、室口の装飾を琫として、その下の末端の部分の装飾を琕(補頂反)という。」

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茅元儀曰く、「鉄は多く鍛練(銅鉄を扱って煎って成熟させること。作煉に通ず)しなければならない。刀には純粋な鋼鉄(錬鉄)を使う。背を起こして平削を用いて平たく削り、始めて刃に至る。 刃を平たく研磨してこそ鋭い。 近ごろ匠人が刃の厚い部分をたたいて平たく研磨しないで横から折るにとどめてしまった。刃の両側の下がなめらかでなければ刺しても深く入らず、刃先が一度すりへればすぐに頑鉄になる。刀は手と同じように軽くなければならない」(【案】これは藤牌に使う腰刀の制度といえども、練磨の方法がすこぶる備わっているから記録する。)

2011年9月27日火曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「提督劒」

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【増】鋭刀と同じ、すなわち腰刀である。
【案】提督剣14勢は李如松(字は子茂、鉄嶺衛人で寧遠伯・成樑の子。官位は太子太保で諡号は忠烈。五世祖・英は本来朝鮮の楚山人だが明国に内附した)がその法を伝えている。
神宗朝[万暦帝・1572-1620]の提督で、壬辰倭乱時にわが国に来た者は、劉綎(字は省吾、南昌人で都督・顕の子。官位は総兵)、 麻貴(大同右衛人で官位は右都督)、董一元(宣府前衛人で官位は太子太とみられる)、李承勛(字は錫庸、処州衛人で官位は総督)、 陳璘(字は朝爵、翁源人で官位は都督)などだが、諸人では劉が大刀で天下に名を知らしめた。

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『懲毖録』に曰く、「癸巳(先祖26,1593)の夏に病気で漢城の墨寺洞に横になっていたが、明の武将・駱尚志(余姚人であり、左参将としてわが国にきた。 千斤を持ち上げることが出来たので駱千斤と呼ばれた)が私が横になっている家を訪問して因って言うには“朝鮮は微弱で、しかも倭賊はまだ朝鮮の土地にいる。我々明国の兵が帰国しないうちに兵法を習えば国を守ることができます”と。私がすぐに状啓[王への報告書]を上げて禁軍・韓士立を招いて70人余りを募って駱公の元で教えを求めるようにすると、駱公は麾下の張六三など10人を選んで教師にして、槍、剣、狼筅などの技を練習させた」(『懲泌録』録後雑記 9版;『西厓全書』 1巻810ページ)。
駱公は李提督の部下だったので、提督剣の名称がここから出ただろう。中軍・李源(李如松の5世孫)曰く、「提督が我が国にいるとき通津琴氏の娘を取って侍姫としたが、妊娠をすると剣を与えて『息子が生まれたら名前を天根にしなさい』と言った。 後に天根を生み、天根の子孫が巨済にたくさん住んでいる」
英祖丙寅年(1746, 英祖22)に統制使・李彦祥が天根の玄孫・茂春の元でその剣を見つけ、この故事を鐔に刻んで柄と鞘を作り、今ではその剣は再び提督の家に戻っている。

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刃長は3尺4寸、鐔は9寸であり二つの穴がある。刃の幅は1寸5分であり、上殺は2分、背厚は3分5厘、末殺は1分5厘だ。刀面には「張」の字が円中に楷書で陽刻されている。上にある縦の釁(音は許勤切、意味は痕)は蜿蜒(『焦氏易林』によれば "蛇がくねくねのたくりながら進む" という意味)とした細い金で今でもさびがついていない。
これはたとえ撃刺法では無いとしても提督剣にとって喜ばしい。故にそれを取って絵と同時にその故事を記す。

2011年9月23日金曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「双手刀」

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【原】○本名 長刀、俗称 用劒 平劒。

【原】戚継光曰く“刃長5尺、後に銅護刃1尺を用いた。 柄長1尺5寸、併せて6尺5寸、重量2斤8両。この刀は倭寇が中国を侵したときに初めて見られるようになった。彼らがこの刀を手にして舞うと光閃の前に、我が兵たちは気を奪われ、倭人は一丈余り一躍し、遭遇した者は両断された。これは刀が鋭利で、しかも両手で使用するので力をこめられるためだ。今日でも、(刀だけ)単独で用いては防御できない。ただ鳥銃を兼用すれば防御可能で、賊が遠ければ鳥銃を発射し、近ければ刀を用いる。

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【案】本名は長刀だが、今日では双手刀と呼ぶことが増えたのは双手(両手)を使うという文があるためだ。今日ではこの劒制は使わないので、腰刀で代用して稽古する。ただしその名前だけが残った。茅元儀曰く“長刀は倭奴の制度である。 歩兵には非常に有利な武器だが、昔は備えられていなかった。”しかし『中華古今注』に曰く“漢世伝に高帝が白蛇を斬った剣の長さが7尺だった”とある。『漢書』広川恵王越(漢景帝の息子)に“孫去が7尺5寸の刃物を作った。”とある。『後漢書馮異伝』に“車駕が河南に達して送別する時、7尺もある玉具劒を下賜した。”とある。『刀劒録』には“周国昭王が五振りの剣を鋳造したが各々五嶽の名前を付けた。鎮嶽は長さ5尺だった”とある。石季龍(五胡後趙の石虎、字は季龍)の剣は長さ5尺だった。慕容垂(五胡の後燕)の二振りの剣は長さが7尺で、一振りは雄で一振りは雌だった。そうであるならば、長刀の由来もやはり古い。

2011年9月9日金曜日

朝鮮人「我々がムエタイをパクったという日本人の嘘に騙されタイ人が怒っている」

 

以前に紹介した、ムエタイパクリ動画「キョクトギ(格闘技、Kyuktooki)」が韓国ネットニュースで取り上げられた。

そして、やはり問題の本質を理解していない模様。

以下、記事の翻訳。


"韓国がムエタイの盗作?"日本の歪曲に嫌韓拡散懸念
国民日報|入力2011.09.09 11:24 |修正2011.09.09 14:53 |コメントの表示

[クッキーパンパン] "韓国は、空手、剣道に続き、今度はタイのムエタイまでコピーし、自分たちのものと主張している!"

私たちの総合武術である"キョクトギ(格闘技、Kyuktooki)"が、タイのムエタイを盗作したという誤解を受けている。一部の嫌韓指向の日本ネチズンたちの悪意的な歪曲で起こった騒動だが、インターネットを中心にこのような誤解が広がって、タイのマスコミがこれを事実として受け入れて、現地ネチズンの嫌韓感情を刺激している不合理な状況が続いている。

事件は、動画共有サイトYouTubeに上がった"韓国のキックボクシング​​、キョクトギドキュメンタリー(Korean Kickboxing Kyuktooki documentary)"というタイトルの動画で始まった。動画は武術専門図書・DVD制作販売業者である"タートルプレス"は、"韓国のキックボクシング​​:キョクトギ(Korean Kickboxing:Kyuktooki)"というタイトルで、2005年11月から販売を開始したDVDのサンプルだ。

5分13秒の動画は、キョクトギ東洋チャンピオン出身で、2006年以降、現在まで城南市の議会議員として活動しているジョン・ヨンハン(37)議員が、キョクトギの由来と試合の方法などを説明する内容になっている。鄭議員は、キョクトギの由来に言及し、"武術は、エジプトの武士たちが手に包帯を巻いて生身で戦うことを出発点とする"とし"以後、我が国では1970年代の関連団体が生まれて、本格化した"と説明する。動画には、キョクトギの様々な武術を総合して誕生したという事実を知らせる旗も登場し、キョクトギはムエタイとは異なり、関節技と、投げと、締めがあることも明示されている。

しかし問題は、その動画を、日本の嫌韓ネチズンたちが歪曲して吹聴していることにある。

ID"jariwoXXX""dokkXXX"など、一部の過激な嫌韓ネチズンたちは"韓国がムエタイを盗んで自分たちのものだと主張している"というふうに文章を書いた後、YouTubeのビデオを添付する形での歪みを加えた。このような主張を事実と信じた一部のタイのメディアがこれを扱い始め、現地ネチズンたちが怒っている。実際の1年前にYouTubeに公開されたムービーには、これまで星のコメントはなかったが、最近、地元の報道以来、タイ、ネチズンたちの反韓感情混じりのコメントが殺到している様子だ。

動画を几帳面に見ると、キョクトギはムエタイとはまったく関係がないかどうかは不明だが、タイのネチズンたちはキョクトギの選手たちが着用したパンツは、ムエタイの選手たちと似ている点などだけ見て誤解を育てている。ユーチューブだけでなく、武術関連のサイトなどにも引き続き関連の問題が上がって嫌韓感情が広がっている。

これを確認した私たちのネチズンたちは急いで、"韓国人全員がムエタイを韓国のものだと考えているなどと、誤解しないでくれ"とか"ムエタイは、タイ固有の武術というのは、誰もが知っている事実で韓国がムエタイをコピーしたという主張は全く事実ではない"というような英語のコメントをインターネットに載せているが誤解を払拭させるには力不足の状況だ。

とんでもない被害をこうむることになった鄭議員は、本紙との通話で、"キョクトギはムエタイはもちろん、ムエタイに多くの影響を受けたキックボクシング​​など、様々な武術を応用した包括的な武道である。一部ムエタイに見えますが、ムエタイにはない技と投げ、締めなどの技術があるので、ムエタイとは性格が違う"とし"これを明確に明らかにしたが、これを歪曲したり、歪曲されたことを事実として受け入れるのは、武術人としての資質にならないだろう"と皮肉った。

鄭議員はまた、"国ごとに固有の運動の分派があり、宗派ごとに技術やルールが異なる。キョクトギの風貌にムエタイの部分が似て見えるからといって、それコピーしたと誹謗中傷してはいけない"とし"一部の日本の友人たちがキョクトギがムエタイをコピーしたと話をしているというのに、以前のテコンドーが空手道に由来するものだと言い張る日本人たちの事例が思い出されて残念だ"と述べた。

国民日報 クッキーニュース キムサンギ記者

http://sports.media.daum.net/general/news/combative/breaking/view.html?cateid=100034&newsid=20110909112411952


彼らが自分たちを被害者化するのに長けているのはよく知っていたが、まさか「我々がムエタイを剽窃したと日本人が歪曲するので困っている」と来るとは思いもしなかった。また、さらりとテコンドーが空手のパクリだというのも日本人の陰謀ということにしている(いうまでもなく「空手からパクリました」とゲロっているのはテコンドーの”創始者”たちである)。

彼らを理解しきれていない勉強不足を痛感すると共に、まだ自分は韓国面に落ちていないなと安心したりもしている。

さておき、彼らは自分たちが非難される本当の理由から目を背けたいようだ。

いうまでもなく、キョクトギ、いやウリナラ武術、いや朝鮮起源説の問題点は「剽窃」だ。他人の文化・伝統・成果物を、自分のものとして喧伝し利用することがタイ人を、日本人を怒らせる一番の原因である。

さらに彼らは、ほんの少しのウリジナリティー(ここでは締め・投げ・関節)を加えることで全体の成果を自分のものにする権利があるのような振る舞いをする。これが「剽窃」の罪を自認しながら、それを回避しようとする姑息な手段に感じられ、ますます他国のひんしゅくを買うのだ。

2011年8月24日水曜日

There was no sword arts/spear arts in Korea

 

Some think Korean also had excellent traditional sword/spear arts like Japanese or Chinese. They truely believe that every country must had their own sword arts. But historical Korean documents unmercifully pointed out thier belief is not true.


[Annals of the Chosun Dynasty Seongjong] 11th Year from Seongjong reign (1480) 6th Month 11th Day

矧惟國人, 不慣槍劍, 專業弓矢, 爲禦敵之備

The people were not accustomed to use of sword or spear, defended from the enemy only by archery.

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[Annals of the Chosun Dynasty Seonjo] 25th Year from Seonjo reign (1592) 10th Month 13rd Day

我國絶無劒手

There was no swordman in our country at all.

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[Annals of the Chosun Dynasty Seonjo] 27th Year from Seonjo reign (1594) 7th Month 11th Day

我國自古劍術不傳

There has been not descendent any sword swordplay from acient time in our country.

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Korean Official Record totally admit that there was no sword arts and spear arts in Korea. I feel sorry for someone who are beguiled by Korean arts.

2011年8月22日月曜日

シャルル・ダレ著『朝鮮事情』(1874)

 

朝鮮では、人びとが非常に高い声で話すので、集会はとくに騒がしい。できるだけ高い声で叫ぶことは、物腰が上品である証左となる(ママ)。社交界では、普通の声で話すのは、奇を衒おうとしている変わり者だと思われ、他人からは悪く見られる。朝鮮人が喧騒を好むのは、先天的である。彼らの考えでは、大騒ぎして、はじめて、ものごとは正されるのである。

 

朝鮮人は、男女とも、生まれつき非常に熱情的である。しかし、真の愛情は、この国には全く存在しない。彼らの熱情は純粋に肉体的なものであって、そこにはなんら真心がない。彼らは、自分自身を満足させるため、手に届く対象には何にでもやたらと飛びつくあの動物的な欲望、獣的本能以外は知らない。したがって、風紀の腐敗は想像を絶し、「人びとの過半数は、自分たちの真の両親を知らない」と、大胆に断言さえできるのである。異教徒の男に凌辱されようとした瞬間、キリスト教徒の女性は、しばしば次のように言って彼らを思いとどまらせた。「私に近づかないで下さい。私はあなた様の娘なのです」。すると異教徒は、それが真実ではないとしても、少なくとも非常にありそうな事実だと悟って、退くのである。さらにこの国では、いかなる宗教的拘束も、情熱を抑制することはできない。風習と物質生活上の必要のゆえに、貧しい人びと、すなわち人口の半分がしばしば貞操観念を忘れるように強いられるこの国では、これ以外にどんな方法があるだろうか?

 

ほとんどすべての子供は、九歳か十歳まで、あるいはそれ以上になっても、夏のあいだは裸のままで過ごすか、あるいは腰までの小さな上衣を身につけているにすぎない。

 

一人旅をしている女性が旅宿で夜を過ごしたりしたら、見知らぬ者の餌食になることは間違いない。ときには男の同伴者がいるときでさえ、男がしっかりと武装していなければ、彼女を十分に守ることはできない。売春が白昼いたるところで行なわれ、男色やその他の自然に反する犯罪が、かなつ頻繁にある。
街道筋では、いたるところの村の入り口に身分の低い娼婦が米焼酎の瓶を手にしており、それを旅人に供する。おおかたの男たちが足を留めて、彼女たちに歌をうたわせたり、いっしょにふざけ合ったりする。仮にある男が彼女たちを無視して通り過ぎようとすれば、彼女たちはためらわずに男の服をつかんで道を塞ぐ。

 

朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。異教徒のあいだには、なんらの倫理教育も行なわれていないし、キリスト教徒の場合も、教育がその成果をあらわすまでには時間がかかる。大人が不断の怒りを笑って済ませるから、子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。

 

彼らは、怒りっぽいが、それと同程度に、復讐心に満ちている。たとえば、五十の陰謀のうち四十九までが何人かの陰謀加担者によって事前に暴露される。これらはほとんどいつも、個人的な恨みを満足させるためのものであったり、かつての少し辛辣な言葉に対する仕返しのためであったりする。敵対する者たちの頭上に懲罰を加えることができるならば、自分が罰せられることなど、彼らにとってば何でもないのである。

 

朝鮮人を、無気力で臆病だとは非難できない。彼らは、必要な場合には、答刑や杖刑その他の刑罰を、まったく平然と耐え忍び、いささかの感情も外に出そうとはしない。彼らは、病気のときでも耐える。彼らには、肉体を鍛練する多くの趣味がある。例えば、弓術や狩り等があり、決して疲労のために屈することはない。
しかし不思議なことに、にもかかわらず軍隊は概して非常に弱く、彼らは重大な危険があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。たぶんそれは、訓練不足か組織の欠陥のためであろう。有能な将官さえいれぼ、朝鮮人はすばらしい軍隊になるだろうと、宜教師たちは確信している。

 

たぶん、適切な季節に十分に計画を練って虎退治をすれば、この動物を多く捕殺し、残りを人のほとんど住まない大山脈のなかに追いやることができるであろう。しかし、人びとは、当面の危険を排除することしか考えず、将来のこととか全体の利益とかには何も気をくばらない。

 

朝鮮人は、金儲けに目がない。金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。彼らは、財産を保護し盗難を防ぐ道徳的な法をほとんど知らず、まして遵守しようとはしない。しかしまた、守銭奴はほとんどいない。いるとしても、富裕な中人階級か商人のあいだにいるにすぎない。この国では、現金の二、三万フランもあれば金持ちだといわれる。一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余すところなく使ってしまう。金さえあれば、豪勢な暮らしをすること、友人をよくもてなすこと、自己の気まぐれだけを考えている。

 

数多くの人びとが、常に街道に出てきては好機をねらっている。ここに無くてもあそこでは出くわすかもしれない、何か宝物でも見付かるかもしれない、まだ開発されていない何か高価な資源でも発見できるかもしれない、何か金を稼ぐ新しい手段を発明できるかもしれない、などと期待している。ある道などでは、住民の半数がちゃんと定住しておらず、貧困から遁れるために一、二年もすると移住し、少しするとまた移住し、同じことをくり返しながら最上のものを探し求めるのだが、ほとんどいつも最悪なものに出くわしている。

2011年8月16日火曜日

朝鮮人「これが”コリアン・キックボクシング”ニダ!」→タイ人「どうみてもムエタイじゃねーか!」

Youtubeに笑劇的な動画がアップされた模様。

以下、内容を簡単にご紹介。


「Korean Kickboxing Kyuktooki documentary」 と題されたこの動画は、『Kyuktooki(読みはキョットギっぽいかんじ)』と呼ばれる朝鮮流キックボクシングについて紹介しているらしい。

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「Kyuk Too Ki - Korean Kick Boxing」

このPR動画を公開しているのはTURTLEPRESS.COMという、主に韓国武術に関する書籍やDVDを制作している出版メーカーである。米国の会社ではあるが社長は韓国系、社章の亀は亀甲船をイメージしていると聞けば、そのやばさはご推察いただけるだろう。

TURTLEPRESS社の手にかかればウリジナル武術のコリエイトなどお手の物。しかしこのウリナラ武術は日本武道や中国武術のパクリではない。

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ムエタイ選手のつけている腕輪「パープラチアット」

そう、ムエタイなのである。パクり元を日中からタイへと華麗にシフトさせたのだ。
当然、「朝鮮独自」の武術であるとアピールするために、ムエタイとの差別化を図った「チョイ足し」することも忘れていない。

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師範「KyukTooKi』の武器は、拳、肘、膝、脚、掴み、投げ、締めです。」

振るっているのは、「KyukTooKiの歴史」だ。少しでもムエタイに触れるかとおもいきや、

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師範「この武術の起源はエジプトだと知られています。」

まさかのエジプト起源説である。だれも文句を付けられないところまでさかのぼってしまった。これでタイ人から「KyukTookiはムエタイのパクリじゃないか!」と指摘されても、「全ての格闘技は、他の格闘技の影響をすくなからず受けている。ムエタイだって元をたどればエジプトに行き着く。それとも、君たちはムエタイを無から創りだしたとでもいうのかね?」と煙に巻くことができようというもの。下手に三国時代などを起源にしてしまうと「海東剣道」のように法廷で嘘がバレかねない。

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師範「韓国ではKyuk Too Ki 協会は1970年代に設立されました。」

設立年は近年であっても構わない。むしろ都合の悪いことは「近代に体系化された武術だから~~」と切り抜けられるようになる。伝統武術の神秘性と近代武術の柔軟さのイイトコどりである。

さて、こんな与太話を吹聴する恥知らずの面はどんなものかと拝んでみれば、

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「アジア王者ジュン・ヨンハン」

期待を裏切らない安定感。

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少年「将来はチャンピオンになりたい」

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「初段黒帯カン・ムンスク」

ご多分にもれず女子供をターゲットにするところも、さすが朝鮮武術の面目躍如といったところ。


この動画には、「微笑みの国」として知られるタイ王国の温和な人々もさすがに頭に来たようで、コメント欄はタイ語のコメントや、タイ人と名乗る人による英語の書込みで溢れかえっている。

タイの皆さん。私たちも同じ苦しみを共有するものです。ともに韓国の嘘と戦いましょう!

2011年8月3日水曜日

【翻訳済み】WJFさん(現GJFさん)、朝鮮メディアデビュー

WonderusJapanForeverプロジェクトの「韓国の古地図に竹島は描かれているか」が朝鮮のメディアで取り上げられた模様。ざっと翻訳する。


日防衛白書に古地図の比較動画…「非常識だ」

【マネートゥデイ】入力 2011.08.02 13:51 ハン・ジャヘ記者

▲日本人が作ったものと推定される韓国と日本の古地図の比較動画

日本が2011年の防衛白書で独島領有権を公式決定したなか、日本と韓国の古地図を比較し、独島の領有権を主張している動画が話題だ。

去る6月23日に投稿された動画は、「日本では竹島(独島)を正確に描いた古地図が日本には数多く存在する」とし「韓国には、竹島(独島)を描いた古地図が存在しない」と主張した。

続いて「韓国が偽ではなく、確かな真実のために、適切な未来に向かってよくていくことを希望する」と付け加えた。

この動画は、20以上の言語の翻訳動画が出ている。

動画を見たネチズンたちは「徹底的に対応しなければならない」「動画流布を防がなければならない」「非常識だ」などのコメントで感情を現わした。 
 
2日午前、日本政府は、閣僚会議を通じて独島領有権を既成事実化する内容を含む防衛白書を正式決定した。

防衛白書の第1部「我が国を取り巻く安全保障環境の概観」では「日本固有の領土である北方領土と竹島(独島)の領土問題が依然として未解決の状態」と記述した。

また、日本の主権が及ぶ領土を扱った地図で独島を「タケシマ(竹島)」と表記して領有権を既成事実化した。



元記事:日방위백서에 고지도 비교 동영상…"정신나갔다" (中央日報)
http://article.joinsmsn.com/news/article/article.asp?total_id=5888429

2011年8月1日月曜日

海東剣道の主張する歴史を翻訳する

 

先の裁判記録から分かる通り海東剣道は近年創作されたウリナラ武道である。このことは海東剣道創設者も認めており、また海東剣道連盟の”公式な”立場でもある。

しかし伝統武術の振りをするというのは実に抗いがたい魅力があるらしく、世界各地に散らばる海東剣道支部のサイトには未だに「海東剣道は、高句麗の士武郎(サムラン)に由来する伝統剣術である」などという妄想が堂々と掲載されていたりする。

今回は、そんな海東剣道の主張する歴史を翻訳してみようと思う。


海東剣道について

海東剣道とは?

海東剣道は剣術の韓国スタイルです。それは剣を用いて、大規模戦闘を想定した一対多の戦闘と一対一の戦闘用に開発されました。

とはいえ、剣を用いた格闘戦の時代は終わりを告げました。剣の道を学ぶことは、社交儀礼を身につけた古えの戦士たちとつながるため、我々の内なる戦士の魂を育むための道です。海東剣道を学ぶことはあなたの体と心と精神を磨くための素晴らしい方法なのです。

海東剣道の稽古は4つの主要な領域から成ります。

・Kibon Dongjak - ここでは、生徒は基本の構えの訓練と木剣を使った斬撃に励みます。
・Gyukgums - ここでは生徒はパートナーと共に、あらかじめ決められた攻撃と防御の流れの学習に励みます
・Gumbup - ここでは生徒は流動的な動作による数千通りの動き方や切り方を学びます。生徒が習う形は彼らのランクに応じて決まります。
・Baegi - ひとたび黒帯を獲得し真剣を操る責任感と成熟度を示した生徒は、竹、藁マット、紙、果物など様々な標的の切り方を学びます。

海東剣道の歴史

海東剣道は、高句麗(BC37-AD668)と呼ばれる古代朝鮮に由来する武術です。白頭山の三池淵に道場を開いたSul Bong師[*1]によって創設されました。彼は弟子たちに愛国心、親孝行、年長者への尊敬、正義の行使の考えに基づく武術を基本とした剣術を弟子たちに教えていました。中でも優れたものは士武郎(Samurang)と呼ばれ、彼らは常に不正義に対する戦いの第一線にいました。

士武郎の理念は:[*2]

・Jun(尊敬)
・Sa(師)
・Chung(重要性)
・Do(正道)
・Chung(愛国)
・Whoo(正義への畏敬)

剣術と道の知識を備えた戦士たちは高句麗の大王たちの大いなる助けとなりました。士武郎たちは将軍となり、好戦的な近隣諸国に対する防衛を手助けし、高句麗の安定と安全に多大な貢献をしました。高句麗の士武郎制度は、百済の騎士道として、また(テコンドーのもととなったテッキョンの発明者としてしばしば参照される)新羅の花郎道として導入され、多くの有能な戦士たちを訓練するために使用されました。

彼らがもたらした高句麗戦士の成功は、韓国史に前例のないことでした。彼らの統率力を通じ、古代中国王朝の隋による過去に類を見ない200万の侵略者を退けました。これらの戦士のおかげで、高句麗の人々は極東の支配国家として700年の平和を謳歌しました。平和と正義を守る士武郎の闘争心は価値ある精神として、また子孫の誇りとして残りました。

士武郎の歴史は大変興味深く、多くの議論がなされ、多くが未解明です。ジョシュア・マリノによれば、彼らのあり方は、中国による高句麗侵略後、日本のサムライの基礎となりました。中国の侵略により高句麗軍が敗れた後の668年、優れた士武郎の将軍達が日本に逃れました。彼らは中国語と日本語を操り、中国による民族浄化から逃れるため隠遁する僧侶となりました。彼らはそのような生活を続け、500年の時が過ぎ、彼らの子孫が日本の侍階級を作りました。更に詳しく知りたい方には、マリノ氏による素晴らしい著書「Kwanjangnim Original Haidong Gumdo」を読むことをお勧めします。

日本に渡らなかった士武郎は、組織を残し皆殺しから逃れるために山々に隠れ住むようになりました。中国の占領者は、韓国の伝統武術を関する全ての書物を消し去ろうと躍起になりましたが、戦士たちは密かに訓練をし、師から弟子へ彼らの歴史を口伝で伝えて守りました。1592年の秀吉による韓国侵略後、日本の剣道が韓国に根付きました。この侵略と、20世紀前半の日本による韓国侵略によって、韓国の伝統武術はほとんど痕跡を消してしまいました。しかし韓国の伝統武術を取り戻そうという新たな運動のおかげで、今日、多くの韓国伝統武術が再び韓国に根付いています。

後に海東剣道となる武術はおよそ40年前、ある郊外の山でチャンペクサン師範[*3]によって現在の世界海東剣道連盟会長であるキム・チョンホに指導されました。それまで韓国に広まっていた一対一に焦点をあてたコムドはあまりに日本的すぎるとキム師範は感じていました。彼は、テコンドーの徒手技術で発生するような煌きをもたらすために隠された韓国剣術を追求しました。

コムドに足りないものを補うため、キム師範は海東剣道を戦場や一対多のための技術に基づいて作り上げました。剣道やコムドの技術は一対一の戦闘に基づいています。キム師範が学んだ歴史的韓国剣術は双手剣などを含め数多くあります。これらの武術は全て、1798年に李徳懋将軍により韓国武術史保存のために書かれた韓国の武芸教本『武藝図譜通志』の中に見つけられます。鋭刀、提督剣、双剣などが韓国の歴史的剣術に含まれます。海東剣道はこれらの剣術各々に、10-15の形を作り加えました。これらは海東剣道の公式の形となりました。そのため、海東剣道の修行者は双手剣法、鋭刀剣法、Shimsang剣法、本国剣法、提督剣法、海東剣法などを学びます。

受け、斬り、突き、格闘、腹式呼吸といった海東剣道の基本技術とその基礎は、高句麗の士武郎が高句麗史上最強の戦士となる手助けとなりました。そのため、海東剣道が最も重要視するのは、日本剣道の単純さでも、中国カンフー剣術の複雑さでもありません。むしろ最も現実的な剣術としてのプライドをもっているのです。中国が漢から唐へと移り変わり、東夷族など多くの国々が盛衰する一方、700年続いた古代高句麗の存在は決して小さなものではありません。

高句麗王朝からほぼ1300年後、海東剣道によって韓国剣術の壮大な歴史が取り戻されました。韓国の歴史の生徒として、私たちは高句麗に多くの愛情を持ちながら、しかしその愛情を満たす程の知識を持っていません。それ故に海東剣道の創始者は、北の地を700年間支配してきた大高句麗の末裔として、それを学ぶもの全てにいにしえの士武郎の意思を引継ぎ、海東剣道を通じ高句麗の精神を世界に教えて欲しいと願うのです。


*1…Sul bong師匠というのが何者かわからなかった。

*2…チャンペクサン師匠という人物は創作であると言われている。ペクトサン師匠と呼ばれることもあり、どちらの名前も、朝鮮最高峰の「長白山/白頭山」の朝鮮語読みである。日本人の感覚で言えば、「私の師匠はマスター・フジヤマです」というようなレベルで、彼らの嘘が如何に安直であるかをものがたっている。

*3…この士武郎の理念というはちょくちょく変わるようで、この他には「忠・孝・礼・義・信・智」の6つだったり「忠・孝・礼・義」に4つに減ったりする。元ネタは儒教の徳目(仁・義・礼・智・信、および孝・悌・忠)

翻訳元:www.hdgdpanam.com/AboutHaidongGumdo.aspx

2011年7月30日土曜日

ChosunNinja’s Unbeliavable Joke!

 

I was too angry to react for a while when I found the comment Greg “the humble servant of God” said. So I could’t mention to this till now.

The comment was found on 11th Mar 2011. Just two month after from the Earthquake and Tsunami in East-Japan.

This is what he said. For Greg’s follower, I want you to read what he said, and think about what kind of parson he is.

choson_radiation

Although only in his claim, he is a half Japanese and his mother is a Japanese, how he can say the nuke joke like that!

Also, his mother had been to Hiroshima in 1945 and suffered from atomic bombing… according to his comment.

If he is like who he claim, he must the las man say like that! Nobody can say such a joke if his/her mother had be atom-bombed.

Again, to Greg’s follower, Is he your sensei who you want to learn form? Do you still think he teach something to you with “respect and love”? Can you be proud of him yet?

2011年7月28日木曜日

The Evaluation of the Japanese Swords from Historical Primary documents (4) “Annual of the Chuson Dynasty Seonjo”

“Annual of the Chuson Dynasty Seonjo” Vol.26, 25th year from Seonjo reign (1592) 5th month 3rd day 6th article

「人心怨叛,與倭同心」

(Korean) people had a grudge against their king, and supported Japanese.

「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」

Korean people said to their king, "The Japanese is human too.Why should we leave our hometown? "

www.dotup.org1813772_thumb[1]

2011年7月27日水曜日

一次史料にみる日本刀の評価(4) 『宣祖実録』

宣祖 26卷, 25年 5月 3日 6回目の記事

「人心怨叛,與倭同心」

人心は怨み叛き、倭に同調するのみ

「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」

我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要があるのか?」

www.dotup.org1813772

2011年7月26日火曜日

The Evaluation of the Japanese sword from Historical Primary Documents (3) “History of Ming”

"History of Ming" Vol.320 Choson(Korea)

「自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。」

At seven years Japanese invation in Korea, we lost handreds thousand of soldiers and millions of war chests. Our solders and dependency’s had no chance to win but the calamity of war was ended as a result of the death of Hideyoshi.

minshi1

We can find a similar document in Japan article.

"History of Ming" Vol.322 Japan

「前後七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與朝鮮迄無勝算,至關白死兵禍始休。」

In seven years, we lost Hundreds thousand of soldiers and millions of war chests. We and Korea had no chance to win but the calamity of war was ended as a result of the death of Hideyoshi.

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2011年7月25日月曜日

The Evaluation of the Japanese Swords from Historical Primary documents (2) “Annual of the Chuson Dynasty Seonjo Reviced”

『[Annals of the Chosun Dynasty Seonjo Reviced』 27vol,  26th Year from Seonjo reign (1593) 1st Month 1st Day

「天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深,不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。」

Heaven’s army (Soldiers from Ming Dynasty) have no firearms but short swords, ride horses but the road was steep and deeply muddy, they can’t driving a horse.。Japanese army swang their long swords and charged to right and left, the swords were well sharpen, that’s why threre was no enemy.

senso

2011年7月24日日曜日

The Evaluation of the Japanese sword from Historical Primary Documents (1) “Muye dobo Tongji”

“Muye dobo Tongji” Overtune, Questions of Martial Arts

「興倭封陳倭輙敢死突進我軍雖有持槍而帯剣者剣不暇出鞘槍不得交鋒朿手而盡衄於兇刃皆由於習法之不傳故也」

Fighting against Wae(Japan), Their army made a desperate charge to us. Though we had spears or swords, There was no time to draw swords or no chance to cross spears, everybody were killed by opponet’s sword. Because no tradition to train swords or spears had been passed down.

muye

2011年7月22日金曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その9

(この章は:餅 ◆ACiNmI6Dxs さんによる翻訳です)

初期日本の視覚芸術

視覚芸術は日本で非常に早い時期から――事実、12000年以上前から始まった。我々が知っている他の人類とは異なり、日本先住民の縄文文化は、他文化よりずっと以前に陶器を発達させた。人類学の伝統では陶芸は、世界中で農業の発明の後にのみ発生する人類の発達であると考えられる。土器は、農耕に沿って、伝統的に新石器時代文化(Neolithic)から中石器時代(Mesolithic)に分けられる。しかしながら、人類が活動的遠隔農業に従事する数千年前まで、狩猟採集縄文陶器は巧みな土器であるだけでなく、信じられないデザインの手工芸陶器であった。土器は、渦状に積み重ね、高くした線(※しわ?)から作られた、これらの渦の境界線は土器に"縄"のような外見を与えた――それゆえ縄文または"縄"という名がついた。

土器は非常に早く出現したにもかかわらず、縄文人は非常にゆっくりと視角デザインを発達させた。さまざまなデザインの繰り返しを強調させるために指や糸を使って。縄文時代中期(紀元前2500年から1500年)、縄文人はより定住し、人形を製作するようになった。彼らの単純な装飾の陶器は、この時期に非常にエネルギッシュな装飾品へと発展する。一方中期、後期(紀元前1500-1000)と縄文晩期(紀元前1000-西暦300)の人型は識別的人間であり、抽象的で高度な様式化を残している。

建築では、縄文時代中期以降から、人々は地面に4-5フィートほど掘られた竪穴式住居の家に住んでいたことを知っている。竪穴式住居は平安時代になっても標準建築物であっただろう、そして日本書紀と古事記に詳細されているすべての伝説の神々は、室もしくは竪穴住居に住んでいる。

弥生の部で詳細を議論したように、この日本史で短い期間、最後の紀元前300年から西暦300年の間に、もっともドラマティックな文化の変化が日本社会にもたらされた。文化は、クラスベースの文化に半農業親族を基にした文化から、階級を基盤とした文化へ変わった。弥生人は栽培稲、定住農業社会に住んでいた、そして青銅と鉄(正式には"現代"人がそれらを作る)を取り入れた。定住社会と農業の発展は、日本の建築を竪穴住居から建物を造りあげるように変化した。それはただ純粋に儀式的な用具、鐘などの発達を可能にした。土器や金属製の花瓶、精巧で洗練されたデザイン、その多くは中国から輸入された証拠である。日本文化の多くと同様に、多くの弥生時代の芸術と技術は、韓国と中国から輸入されていた。

何よりも古墳時代から際立ってくる視覚芸術は、いくつかは非常に長く、強力な皇帝や他の人のために構築された巨大な墓だ。新世界の文化を含めて多くの文化は、よく似た埋葬建造物のいくつかの種類を開発したが、我々は日本におけるその起源を理解するかもしれない。弥生人は伝統的に、農地を見下ろす丘の斜面に死者を埋葬していた、古墳によってつくられた巨大な墓塚は、恐らくその慣習の延長なのだろう。むしろ丘の中腹の重要な死者の埋葬よりも、古墳日本人は単に彼らのために丘全体を造った。

非常に最高の墓塚と同様に、日本の古墳は真に壮観に見られる。円や鍵穴のような各々の形、これらの塚は、埋葬室をした。5世紀より堀に囲まれた巨大な人工の塚が建設された。それらの最大の仁徳天皇陵は、1600フィート以上の長さで90フィートの高さである、全体の墓は、3つの堀を含んで、ほぼ460エーカーを占めている!

私たちは古墳は芸術であることをよく知っている、なぜなら死者は、副葬品が一緒だからだ。おそらく、それらは次世界へ運んでくれる。食べ物のほかに、これらの副葬品は鉄具や武器、宝石、陶器、鏡と、最も魅力的なものは、埴輪と読んでいる粘土の人形である。

埴輪の正確な性質や目的は謎のままだが、古墳時代の日本は驚異的な数で、それらを作り出した。これらの小さな粘土の置物は、ほとんど常に古墳時代の人々と物質文化の表象のある程度、の現象だった。いくつかの家、盾、道具、および人である。古墳時代の人々は、ある程度自分の周りの世界を代表している、と彼らの表現は、彼らがどのように生活していたかだけでなく、彼らの生き方と考えを垣間見ることができる。

埴輪をつくった人々は古墳時代を通じて技術を改良した、人形土製品は、経済機能に基づいて認識され始める:兵士、狩人、歌手、踊り手、など。人形の最大数は、鎧の男、どの時期も恒久的な争い( 日本紀と古事記、日本初の日本史の部分で確認できる)の一つがあったことを示唆している。また何かの拝謁品を意味する。
埴輪の別の興味的な容姿は、それらは経済機能を象徴してるだけでなく、よく人形の心の様を表現している。戦士の人形は、例えば、中立的な特徴を持つ傾向にある。群馬県で見つかった農夫の埴輪は、むしろ大きな笑顔が認められる、その職人がに農民の生活は比較的自由だったと表現していることを意図している。

弥生時代以降、日本の視覚芸術は、韓国や中国の芸術と容易く分離するものではなくなった。テュムラス;塚墳や古墳時代の埴輪は顕著な例外だが、全体的に視覚芸術は、大陸のモデルを模倣したものであった。この模倣する性質は、7番目と8世紀、日本の視覚的想像力が視覚的な様々なジャンルに爆発し始めたとき遠慮のない、独創性のない奴隷のように思える。

この日本における視覚的想像力の爆発は、寺院の建築で最もダイナミックになる。我々は初期の神道を知っている、実際の建物にはほとんど注目する点がない。ほとんど、いくつかの地は、神聖な小さな神社が建てられたと考えられるが、完全な寺院の礼拝と建築は、初期の神道にとってはエイリアン、外国のものだったようだ。
寺を崇拝するという、その本土との交流でアイデアと習慣は、主に仏教を通じて導入された、この初期は、神道に適用された。

もし古代日本の視覚世界の急激な出立で、唯一のものを選別するならば、寺院の建物は最善の候補となるだろう。日本人は確かに中国モデルをなぞっていている一方、その全面的建築技術のモデルは倉庫で、初期の弥生時代の先住民の建築発展である。高床式倉庫は地面の上に高く米の倉を配置する木の構造物のデザインである。その倉は、倉を持ち上げて、入り口への急な階段の足場が建てられている。

一番最初の神道の寺院は、倉モデルにほぼ近い。これらの寺院の最大のものは、国家神道カルトの中心地となった威厳ある伊勢神宮である。(※倉を原形とする社殿形式が“神明造”(伊勢神宮の正殿が有名))これらの建築複合体の中心は本殿 またはメインホールである。その神道の建築は、仏教のものとは異なり、ほぼ完全に儀式用建築である。神社の複合体は、浄化の儀式の連続について、一つあなたは言うかもしれない、神道の神々は主に自然の力なので、建築は自然の形成である、儀式を構成する空間的な部分としての川や森など。例えば、伊勢神宮では参拝者は鳥居やをくぐり、または盥で口や顔を清め洗う。これらの譲歩は、しかしながら、川へ、古代日本では複合体の継続の間を渡らねばならなかった。この川清めを通り抜ける、完全でさえある、そして鳥居。(※古くは神前に流れている川で手を洗い口をすすいだりして清めたのを説明?)

これは理解しておくことが重要です。神道の建築について我々が収集した内容から、人間の作った物質は、自然界の延長を意味していた。人工建築物と自然界の包囲の人工的差異は、神道の視覚的な想像力に影響があったのではないのだろう。

参拝者がこれらの巨大な神社の複合体から、人工的建築と自然の姿にほとんど違いを見ていないということがかなり可能である。

先に述べたように、寺院の建物は、主に仏教を通じて導入された。この宗教は、しかし、日本では不安定なスタートを切った。593年、最初の仏教寺院、四天王寺、奈良(現在の大阪)に建設された、までなかった。これらの初期の寺院はほとんど韓国の仏教寺院の隷属的な(独創性のない)イミテーションだった、中央の仏塔に、屋根つき廊下ですべて囲まれた三つの建物kondo(金堂)で構成している。

2011年7月21日木曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その8

音楽

奈良時代以前の他の文化と同様に、奈良平安以前の音楽的生態の再構築は非常に難しい。たしかに日本は、中国・韓国の影響が6世紀に伝来する以前から、活力ある音楽の伝統を持っていた。この伝統は、流行歌の一部に、政治社会問題の大部分に、神道儀式や祝詞に、またおそらく奈良平安時代から伝わる宮廷音楽や宮廷舞踊の中にも生き残っている。しかしこの音楽がどの程度日本由来のものであるか割り出すのは難しい。

日本が音楽について記録し始めた時にはすでに、おもに発祥地や地理的起源によって音楽を分類する洗練された音楽理論を開発していたようだ。日本と米国の音楽史研究者はともに、初期日本音楽を仏教音楽・神道音楽・流行歌・宮廷音楽(雅楽)・軍歌などに分類するが、初期日本では地域ごとの音楽として分類した。よって、もしあなたが古代日本の音楽の成り立ちについて何らかの教育を施されていたなら、古代日本音楽を聞く現代の音楽学者や聴衆がするような「使用法による音楽の分類」ではなく、「文化による音楽の分類」を聞いたことがあるだろう。

日本の音楽は、雅楽・唐楽・唐散楽・高麗楽・林邑楽などに分類される。不幸にも、時代の日本の楽譜は残されていないが、それがどのような音楽であったか書に残された説明に基づいて想像できる。

古代日本で世俗を支配した音楽は、雅楽と呉楽である。これは中国南方と北インドシナから輸入された流行の舞踊と無言劇のための音楽スタイルだ。これは6世紀末にもっとも流行った公的音楽であると言っても良い。しかしこの音楽はのちに、公的音楽のうち最も低級な形式へと落ちこぼれた。

唐楽と唐散楽は中国・唐を起源とする音楽である。この唐王朝の音楽の生態は、極端に種類が多く多文化的だ。”ten styles of music”と呼ばれる正式な規則が朝廷での中国・渡来音楽の序列や演奏法を支配した。楽曲の双方が”ten styles of music”の音楽形式と学術的規則に則っている場合、その音楽は唐楽となる。しかし、楽曲が唐の流行歌から成り立っている場合、その楽曲は唐三楽となる。三楽は初期音楽の中で最も活発で刺激的だ。歌の合間に曲芸的で力強い無言劇を撒き散らすのだ。

最後に、高麗楽は韓国の三国時代の音楽であり、林邑楽は南アジアの音楽である。林邑楽は常に舞踊と無言劇を含んでいる。

古代日本の公的音楽において、音楽とその他の要素を分離することは不可能であった。物語・無言劇・舞踊・曲芸および全ての音楽形式は、音楽とその他の要素のまとまりとして認識されるのだ。おそらく今なお続く主な間違いは、現代人としての我々が、音楽はその他の演技の面から分離できるという何かしらの考えをこの音楽の成り立ちに持ち込んでしまうことだろう。19世紀の西洋の音楽美学においては「音楽のみ」と言われた。しかし古代日本の宮廷音楽は、演技・無言劇・物語・舞踊を伴わなければ意味を成さないのだ。

(以下略)

2011年7月20日水曜日

一次史料にみる日本刀の評価(3) 『明史』

『明史』 320巻 朝鮮伝

「自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。」

七年にわたる朝鮮の倭乱によって、兵数十万と糜餉(戦費)数百万を失い、中国と属国(朝鮮)に勝算はなかったが、関白(秀吉)の死により戦禍は終息に向かった。

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同様の記述は日本伝にも見られる。

『明史』 322巻 日本伝

「前後七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與朝鮮迄無勝算,至關白死兵禍始休。」

七年にわたって、兵数十万と糜餉(戦費)数百万を失い、中国と朝鮮に勝算はなかったが、関白(秀吉)の死により戦禍は休息に向かった。

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一次史料にみる日本刀の評価(2) 『宣祖修正実録』

『宣祖修正実録』 27卷, 26年(1593) 1月 1日

「天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深,不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。」

天兵(明兵)は短剣を持ち騎馬であり火器はなく、道は険しく、泥深くして駆けることができない。賊(日本軍)は長刀を奮って左右に突撃し鋭鋒であり、敵なしだった

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一次史料にみる日本刀の評価(1) 『武藝図譜通志』

『武藝図譜通志』 巻首 技藝質疑

「興倭封陳倭輙敢死突進我軍雖有持槍而帯剣者剣不暇出鞘槍不得交鋒朿手而盡衄於兇刃皆由於習法之不傳故也」

倭と対陣すると、倭はたちまち決死の突進をしてくる。我が軍が槍を持ち剣を帯びていようとも剣を鞘から出す暇がなく、槍も切っ先を交えることができず、皆凶刃によってことごとく血を流す。すべて剣や槍の訓練法が伝わらなかったためである。

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ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その7

日本語

他のすべての言語と同じく日本語は、形式的には言語学的特徴のまとまりとして、主観的には世界の成り立ちと序列の一手段として理解することが可能だ。しかし他の言語と違って日本語は、言語学者にとっても日本語話者にとってもユニークな言語である。日本人は全般的に、自分たちの言語が高度に独自なものであると信じている。日本語は、この世に存在するいかなる言語とも似ていないと信じるものさえいる。西洋の言語学者は、北アジアの諸言語と日本語の間には明らかに関連性があると信じているが、しかしこれらの言語の間にはかなりの量の非類似性もあるのだ。日本語は、何処からやって来てどの言語と関連性があるか断言できない唯一の人間語だといえば十分だろう。

日本人の見解では、この言語の成り立ちは広く受け入れられている二つの信念に基づいている。一つ。日本人は、日本語はまるではじめから日本語として存在した言語であるかのような、とにかく非常に独特な言語であると信じている。二つ。日本語は、非日本語話者にとって読んだり理解したりするのがとても難しい言語であると信じている。事実日本人は、日本語を理解し話せる非日本人のことを「ヘンガイジン(狂った外国人)」と呼ぶ。つまり日本人にとってのこの言語の成り立ちは「自分たちは、他者には理解も共有も出来ない言語を利用している」という意味を持った排他なものなのだ。

西洋的な広い視野からすると日本語は、ユニークな言語でも極端に習得が難しい言語でもない。(中国語や古アイルランド語のほうが相当むずかしい)まあこの議論はここで終りとしよう。日本語が由来する語族が不確かであるため、西洋・日本双方の学者の間には、日本語の起源について3つの主要な説が存在する。

1.日本語は、韓国語・モンゴル語・トルコ語と関連のあるアルタイ語族である。

2.日本語は、パプア語・マレー語・太平洋諸語と関連のあるオーストロネシア語族である。

3.日本語は、ベトナム語・チベット語・ビルマ語と関連のある東南アジア語族である(または、ある学派の考えでは南インドやセイロンの言語であるタミル語族である)

ほとんどの言語学者は、日本語はアルタイ語族であると考えている。弥生人は韓国から移民しただろうという事実を考慮するとそれなりに道理が通るからだ。しかし、かなりの数の日本の言語学者は、日本語はオーストロネシア語族だと考えている。これらの視点の相違は、日本語の起源をめぐる3つの理論を盛り上げている。

1.西洋のモデルによると日本語は、北アジアで話された言語がいくつかに枝分かれした(例えばモンゴル語・韓国語・トルコ語)うちの一つに由来する。初期日本人もおそらくこの言語を話していただろうが、弥生人は間違いなくこの言語を話していた。弥生時代の終り(西暦300年)には、このアルタイ語族の言語は列島を占拠した。この言語は一部、日本を取り巻く太平洋諸島の言語(オーストロネシア語)の影響を受け、従って日本語にオーストロネシア語の基層を形作った。

2.縄文人はオーストロネシア語を話し、弥生人がアルタイ語を導入した。このアルタイ語はこの島々で話されていたオーストロネシア語と融合し、日本を席巻することと成る独特の合成語である日本語を形作った。このモデルでは二つの可能性がある。日本語は、オーストロネシア語の基層を持つアルタイ語であるか、アルタイ語の基層を持つオーストロネシア語である。お好きな方をえらんでくれたまえ。

3.日本語はもともと4~5千年前の東南アジア人の大移動の間に日本に導入されたチベット語、あるいはタミル語と関連があった。この言語は、そう、あなたのご想像のとおり、アルタイ語とオーストロネシア語と融合し現在の言語を形作った。

これは踏み込んで進んでいくには大変な沼地だ。日本語に関連するほとんどについて基本的に同意していない西洋と日本の言語学者たちは助けにならない。世界中の言語学者の場合もそうだが、日本語は愚かであると告発しようとする西洋の言語学者と同様の遠慮をする日本の言語学者による議論はほとんど中傷レベルで行われている。

しかし現在のところ、これが日本語の歴史についての標準的な説明だ。

弥生人はもともと朝鮮半島からの移民であり、アルタイ語を持ち込んだ。この言語は列島でそれまで話されていた言語と融合した。もともとの言語がアルタイ語だったかどうかは分からないが、しかし日本語はあるレベルで太平洋諸語の影響をうけている。彼らは比較的孤立していたので、日本語は、関連性のあった他言語から大きく異なった。これに加え、中国文化から新しい思考法とその表現法が導入された際に、中国語が日本語を根底から変化させた。

事実、ほとんどの日本語の単語(正確には60%以上)は中国起源である。この状況は英語と似ている。英単語の60%がラテン語に由来し、原初英語由来の英単語は少数派である。しかし日本語の文法は大幅には変化しなかった。

徳川時代(1603-1868)、日本語は西洋の言語に大いに影響を受けた。特定の技術が、新たな単語群と表現群を導入した。文法の分野では、三島由紀夫のように、英語に翻訳しやすいように日本語を書く作家も現れた。結果として彼らは、西洋の言語に適するようにいくつかの文法構造を大幅に変化させた。

一言語としての日本語はどのようなものであるか?あらゆる面で日本語は、英語やその他の欧州言語の成り立ちとは全く似ていない。英語と違い、日本語の文構造は主語-目的語-動詞だ。(SOV型言語と呼ばれる。英語はSVO型の文構造である)一方、他言語を学ぶに人々にとって馴染み深いように、主語と目的語の間の関係が英語の表現よりも遙かに親密である。

日本語学習者が最初に気づくことは、日本語は二音節言語であるということだ。(ほとんどの語が二つの音節により形作られている)各音節は一つの子音(consonant)と一つの母音(vowel)によってのみ構成される。(CV音節と呼ばれる)しかしこれらの音節は英語の音節(syllable)とは異なる。日本語ではモーラ(mora)と呼ばれ、すべての音節が子音-母音の構造を持つ。子-母-子の音節は存在しない。もし子音が母音を従えない場合は、一音節と勘定される。「新聞(shinbun)」という単語は4音節あるいは4モーラ(shi-n-bu-n)を持ち、「太巻(futomaki)」も同様に4音節を持っている。日本の詩歌を学ぶものはこれを覚えるべきだ。日本のすべての詩歌は音節を数えることに基づいているが、英語や他の欧州言語のような音節効果を表現しては決してならない。加えてこのモーラシステムは、英単語を日本語に適用しようとした場合に不可解な表現を引き起こす。中国語を除く外来語の多くは圧倒的に英語由来である。しかし日本人がこれらの単語を英語話者に使おうとすると、おそらく彼らは混乱するだろう。これは、日本語が全ての音節で子音-母音の形式を取らねばならないからだ。例えば、ベスボル(baseball)において打者が投球を空振りした場合、「strike」ではなく「セトゥロク」という。(操業を停止しだした労働者のことは「セトゥロキ」という)

日本語に出会った英語話者にとっての最も驚くべき違いは、日本語は強い屈折語ではないということだ。つまり日本語は、ひとまとまりの接尾辞を付加することで動詞や名詞の様々な用法を定義するのではなく、それ自体が一つの単語である助詞を使うことで名詞や動詞の性質を表す。これはある意味、日本語の学習を容易にする。しかしこれらの助詞は、我々が英語や欧州言語に持つ分類と一致しない。

(以下略)

2011年7月19日火曜日

【日本語訳】法廷で明かされた海東剣道の歴史と真実

海東剣道に関する法廷劇を翻訳しました。まず理解のために簡単に経緯を押さえておきましょう。

  1. 海東剣道(Haidong Gumdo)は1980年代、キム・チョンホとナ・ハニルによって二つの朝鮮ウリジナル武道からコリエイトされた。元になった武術の一つは「心剣道(Shim Gum Do)」、もう一つは「気天門(Ki Chun Moon)」。
    • 心剣道はキム・チャンシクという坊さんが1965年に100日瞑想をしている途中に思いついた武術(ということになっている)。実際には剣道のパクリ。
    • 気天門は1960年代にパク・テヨンらが韓国に広めた武術。朝鮮武術ということになっているが、やはり実際には太極拳・詠春拳・南派蟷螂拳のパクリ。
  2. キム・チョンホとナ・ハニルは高校の同級生で、ともに坊主のキム・チャンシクから心剣道を習っていた。坊主が偉大な朝鮮武術を広めるために渡米すると道場を引き継いだ。
  3. 経営不振で道場は潰れた。その後、映画会社の支援を受けて「気天門」の道場へと鞍替えした。このころ「海東剣道」を名乗るようになり、高句麗の士武郎(Samurang)が起源だということにする。しかし韓国内でさえ知名度は無きに等しかった。
  4. キム・チョンホが俳優としてTVドラマに出演する。ドラマの中で「海東剣道」が登場し道場が人気となる。キム・チョンホとナ・ハニルは剣道の達人として名声を得る。
  5. 大韓剣道協会が、ナ・ハニルを「剣道7段を詐称した」として告訴する。
    • ナ・ハニルは「私は大韓剣道7段ではなく海東剣道7段だ」というアクロバティックな言い訳を思いつき、自前で段位証を作成して難を逃れる。
    • この法廷争いによって、海東剣道はますます知名度を得る。
  6. 心剣道の坊主キム・チャンシクが、キム・チョンホとナ・ハニルの二人を「心剣道をパクッた!」として告訴する。
    • 二人は、海東剣道が心剣道と気天門のパクリであることを認める。
    • それまでの「海東剣道の起源は高句麗の士武郎」という主張が嘘と判明する。
  7. 組織拡大により、金銭問題が発生。組織が分裂する。
    • キム・チョンホは「大韓海東剣道協会」を発足
    • ナ・ハニルは「韓国海東剣道協会」を発足
  8. キム・チョンホがナ・ハニルを告訴する。金がらみで内ゲバに発展、という美しい朝鮮様式美である。

以下、翻訳文です。原文はhttp://blog.daum.net/_blog/BlogTypeView.do?blogid=06zf6&articleno=9050199&admin=#ajax_history_home


<法廷で明かされた海東剣道の歴史と真実>

1990年代入ってから海東剣道の創始者であるキム・チョンホ氏とナ・ハニル氏、心剣道のキム・チャンシク氏は終りが見えない法廷訴訟と誹謗戦を始めた。この過程でベールに隠されていた海東剣道の歴史と真実が一つ二つ現われ始めたが、結局大韓民国の法院が海東剣道の歴史を暴いた模様になった。法院で現われた海東剣道の歴史を一つずつ細かくよく見よう。

▲水原地方法院城南支院の第5回公判調書の一部の認証の訊問調書に見れば次のように出ている。

(事件番号 99 高段 1738 名誉毀損 証人訊問調書)問:証人(ナ・ハニル)は双手剣法、心象剣法、鋭刀剣法、本国剣法、長白剣法、陰陽剣法、太極剣法、海東剣法、双剣法を知っていますか?
答:証人(ナ・ハニル)は双手剣法、心象剣法、鋭刀剣法、本国剣法、双剣法は知っているが、長白剣法、陰陽剣法、太極剣法、海東剣法は知りません。

問:証人(ナ・ハニル)は誰から上のような剣法を習ったのですか?
答:証人(ナ・ハニル)と被告人キム・チョンホは公訴外キム・チャンシクから心剣道を初めて習い、その次に気天門を習い心剣道と気天門は剣の基本になり、双手剣法は証人(ナ・ハニル)が作り、心象剣法、鋭刀剣法は証人(ナ・ハニル)と被告人キム・チョンホが作り、本国剣法は証人(ナ・ハニル)と被告人キム・チョンホが武芸図譜通志を見て現実にふさわしく定立させたので、海東剣道は学んだのではなく心剣道、気天門その他すべての運動が混合して現実にふさわしく定立するよう誕生されたのです。

問:上記のキム・チャンシクの心剣道の中に双手剣法、心象剣法、鋭刀剣法、本国剣法があるんですか?
答:ないです。しかし剣の基本は心剣道と気天門です。

問:証人(ナ・ハニル)は「海東剣道」という言葉が1982年頃に初めて使われた事実が分かっていますね。
答:はい。

問:この用語は誰が作ったのでしょうか。
答:公訴外ツェ・テミン牧師が作りました。

問:証人は1983頃被告人キム・チョンホと一緒に心剣道体育館を運営しているさなか門戸を閉めた事実がありますね。
答:看板だけ変えただけで、運動は続きました。

問:証人は心剣道と海東剣道はお互いに違う内容の剣道である事実が分かっていますね。
答:違うのではなく、関連性があります。

▲上の証人訊問調書を検討して見ればいくつか事実が分かる。
[第一] 海東剣道はキム・チョンホ氏とナ・ハニル氏が一緒に作ったものだという事実であり、
[第二] 海東剣道の名称はツェ・テミン牧師が作ったということであり、
[第三] 初期にキム・チョンホ、ナ・ハニル氏は心剣道道場の看板を変えたということであり、
[第四] 海東剣道は心剣道と気天門から派生された剣道ということだ。

今まで高句麗の士武郎(サムラン)が修練したものと宣伝して来た海東剣道創始者たちの言動を推し量ると、法廷での証言は無気力きわまりない。とにかく証人宣誓までして証言したことだから、私たちも事実で受け入れるしかない。ナ・ハニル氏の証言によれば「心象剣法、本国剣法は一緒に作り、双手剣法は自分が作った」と言う。海東剣道創始者としては初めて高句麗武術ではなく、自分たちが作り出した剣術だと証言した意味ある法廷証言に違いない。海東剣道が高句麗から伝承された伝統武芸と純粋に信じていた一部修練生たちは失望で泣くかもしれない。


海東剣道と心剣道と気天門との関係は?

▲海東剣道が20余年前に小部屋で作られた剣術なら、白頭山師匠は何者であり、心剣道、気天門との関係はどうなることだろう?この質問に対する返事もやっぱり法廷で選り分けることができた。キム・チャンシク氏がナ・ハニル氏をソウル地方検察庁に告発した訴状に見れば、

「『海東剣道教本』(ガン・ヤンウク著)第75ページから第76ページにある歴史の項に見れば原告とは全然関連がない海東剣道をまるで原告が受け継いだものであるかのように全然事実と違う内容で記述し原告が創始した心剣道(先防剣法及び先攻剣法)は海東剣道と全然無関係なことなのに海東剣道の一部として原告の許諾もなしに無断で載せたので…」

とされている。
心剣道の創始者であるキム・チャンシク氏も心剣道は海東剣道ではないと主張しているのだ。キム・チャンシク氏が「図書等製作発売配布禁止仮処分」申込書で申し込み主旨を明らかにした部分に見れば、「心剣道は片手で使う特徴があって、他の剣道は両手を使う」と書いている。現在海東剣道は心剣道と違い両手を使う双手剣術が主流だ。

キム・チャンシク氏は本紙とのインタビューで自分がナ・ハニル、キム・チョンホ氏を直接教えたと確かに明らかにしたが、どうして心剣道と海東剣道は違うのか? そして海東剣道の初期創始者たちも気天門を修練した当時に気天門で剣術を学んだ事はないと明らかにした事がある。真実は簡単だ。

心剣道と気天門を俳優キム・チョンホ氏とナ・ハニル氏は片手を使った心剣術の剣訣に 気天門の身法や鍛練方法を混合し、双手剣術として創作したのだ。本人たちが明らかにしたところのように剣の基本は心剣道と気天門だ。その証拠に海東剣道は今も内家神掌と小刀勢、復虎勢、大刀勢、及び開運氣孔のような気天門特有の修練方法を採択している。70、80年代当時のキム・チョンホ、ナ・ハニル氏を知る人々は、彼ら二人が会って数日の間一緒に各種武術書を床に広げ工夫をしては、剣法が一つずつ誕生したと述懐する。水原地方法院城南支院の証人訊問調書でナ・ハニル氏が明らかにしたことと一致する証言だ。


ソウル高等法院の決定文

ソウル高等法院第4民事部の決定文(事件番号97라91。不正行為中止仮処分)に見れば、その間法廷訴訟をしながら整理された海東剣道の歴史が赤裸々に現われている。法院が武林の紛争を仲栽して歴史記録を残すようになったというところに私たちのすべての武術人たちは恥ずかしさを感じなければならないでしょう。今こそソウル高裁の判決文に記録された「認定事実」を一字の添削もなしに公開する。この記録は海東剣道の歴史を勉強しようとする武術人や学者たちにも一番信頼性ある立派な資料になるでしょう。

▲(原告、抗告人: 世界海東剣道連盟。被告、相対方: ナ・ハニル)

ソウル高等法院の決定文(事件番号 97라91、不正行為中止仮処分)

나。認定事実

…このような理由から察するに記録によれば下のような事実が認められる。

(1) 被告と原告の代表者であるキム・チョンホは徐羅伐高等学校同期同窓で高等学校在学時代の1970年頃ソウル新堂洞にあった心剣道護法総館に入館し訴外キム・チャンシク館長指導の下に心剣道を学ぶなど一緒に武術を研いてきわめて親しく過ごした。

(2) 1975年頃キム・チャンシクがアメリカへ移民に行くと被告は武術館を引きつぎ(その頃はキム・チョンホとは離れている状態だった)運営していた1977年頃運営不振でこれを閉館した後また申請外パク・テヨン氏から「気天門」の師事を受け、1980年の初めヒョンジン映画社キム・ドワン会長の後援でソウル瑞草洞63の6シンヤンビルディング301号で「気天門」という名称の剣道場を開館、運営し(その後「心剣道体育館」と改称し、「ヒョンサン映画社武術スタジオ」と併記された看板を使った)、キム・チョンホは1982年頃の瑞草洞道場でまた原告と一緒に働くようになった(原告は当時キム・チョンホが上記道場の館長であったと主張し、被告は被告の勧誘でキム・チョンホが師範として働くようになったと主張するが、記録に現われた当時の上記体育館の規模及び運営状況などに照らせばこれはあまり重要な問題ではない)

(3) 一方被告は上記道場を運営していた1984年頃道場で運動を学んだ訴外故ツェ・テミンの提案により当時道場で使っていた「気天門」という名称に代わり「海東剣道」という名称を使い始め(原告はキム・チョンホが1961年頃訴外白頭山から朝鮮伝来の剣法を伝授され、伝授当時剣法の通り名として海東剣道と称するのが適切だという白頭山の教えを奉じて1983年4月頃これを広く伝授させようとソウル江南区瑞草洞63の6に道場を開館し、その名称として「海東剣道」を初めて使ったと主張するが、上の伝授当時のキム・チョンホの年齢、海東剣道という名称を使うようになった経緯と上の名称使用に関する原告の主張が原告側証人であるキム・ジョンスンの証言、すなわちキム・チョンホが1982年頃安養で海東剣道体育館を開館して海東剣道という名称を初めて使った(まもなく海東剣道は1984年4月頃キム・チョンホがソウル瑞草洞63の6シンヤンビルディング3階で海東剣道道場を開館しながら公式商号で使った名称だと述べているという部分とも一致しない点などこれをそのまま受け入れるのに難しい点がある)。1984年5月頃には 「海東剣法概論」という題の被告が編著者になった海東剣道に関する紹介書を発行し、また劇映画武術研究会員選抜大会に「海東剣道協会」という名前で道場をその選抜場所で提供するなど後援したところもあるが、正式に協会が結成される位その加入者の幸運にめぐまれて組職が揃ったのではなかったし、道場以外に海東剣道を教える他の道場が存在したわけなかった。

(4) ところで1985年初頃、上記剣道館の後援者だったヒョンジン映画社が不渡りに直面すると被告は剣道館の運営を中断するようになり(被告は剣道館の門を閉めた後、被告もキム・チョンホも皆別の事をしたと主張しているが、被告が運営を中断した以降も道場はキム・チョンホによって続いていたと見える)。その後キム・チョンホは訴外ナ・ソンギュンの助けで1986年6月ソウル江南区三成洞に「海東剣道」という名称を使った剣道道場を開館し、被告は海東剣道研究所長という職につくことで剣道道場の総館長だったキム・チョンホと一緒に「海東剣道」の普及に力をつくすようになった。

(5) 上記三成洞道場は1987年2月3日設立者をキム・ヒョンジン、定員を150人としてソウル市江南教育区役所に「海東剣道体育道場」という名称で正式登録され、同年4月6日には商号を「海東剣道体育道場」、代表者をキム・ヒョンジン(同年9月21日ナ・ソンギュンを代表者に追加した)として事業者登録を終え、一方1989年5月10日代表者をキム・ヒョンジンとした「大韓海東剣道協会」が組職され、同月25日全北教育委員会に社会団体として正式登録され、同年12月29日にはソウル特別市から業種を体育施設業、営業所の名称を海東剣道体育道場、代表者をキム・ヒョンジン、住所を三成洞道場とした体育施設業届出済証が交付された(この一連の過程でキム・チョンホが代表者に登録されたことはない)

(6)海東剣道は1989年初めまで一般人に知られていなかったのみでなく、剣道界でもよく知られていなかったが、1989年6月頃被告が主人公ユ・シグァンとして出演したTVドラマ「無風地帯」が視聴者から人気をあつめるようになってそこで放映された体力鍛錬過程及び剣道場面が海東剣道であり、被告が海東剣道の有段者というのが一般に広く知られ、海東剣道を学ぼうとする人々が寄り集まるようになり、これを前後して前述のような協会の組職及び結成が成り立つようになった。

(7)大韓海東剣道協会が組職されキム・チョンホは協会の専務理事の職責を、被告は以前と同じく海東剣道研究所長の職責を引き受け、訴外キム・ヒョンジンが協会の代表を引き受けるようになった。

(8)一方「無風地帯」が視聴者から人気を呼ぶなか被告は放送などに出演して自分を剣道7段の有段者と紹介し、これに対して1989年6月30日大韓剣道協会により被告がエセ剣道教習所運営及び剣道7段詐称で告訴されたのを受け、自分は海東剣道協会所属で、海東剣道7段の有段証を所持しており、大韓剣道協会の資格証とは無関係だと主張し大韓剣道協会を誣告罪で対抗告訴し、その後被告に対する捜査過程でキム・ヒョンジンが代表者になった海東剣道体育道場と大韓海東剣道協会で発給した有段証を提出することで嫌疑なしとの意見で捜査が終決されるなどの紆余曲折を経験したがこれによりむしろ世間には被告と海東剣道の名前が広く知られるきっかけになった。

(9)一方海東剣道が一般に広く知られこれを学ぼうとする人々の数が増え全国の多くの道場が海東剣道道場として大韓海東剣道協会に加入するようになると加入費用の受領及び使用など協会の運営と関連しその構成員たちの間に徐々に紛争が発生し始め遂に1991年11月頃には大韓海東剣道協会が分裂するに至り、被告は分裂後「海東心剣道協会」を作ってその代表者職を引き受け1991年11月13日ソウル特別市に社会団体登録を終えた。

(10)被告は1992年1月27「海東心剣道協会」を自ら解散しまた大韓海東剣道協会に復帰した事があるが(「海東心剣道協会」はその後「心剣道協会」という名前に変更されて維持されている)、その後にもキム・チョンホと所属館長の間に金銭問題に関連した訴訟が引き起こされて、一部道場が離脱するなど分裂が続き1992年末頃の分裂していった道場の館長たちにより「韓国海東剣道協会」が結成されると被告は韓国海東剣道協会の会長に就任した後、1993年1月25日社会団体登録を終え現在に至る。

(11)被告が会長である韓国海東剣道協会は大韓海東剣道協会が教える剣法の内容(海東剣法概論に記述された心象剣法、双手刀、鋭刀、本国剣法、長白剣法、双剣、撃剣)外に双手剣法、外手剣法、左方剣法、右方剣法、外右剣法、外左剣法、夢卜剣法、飛鳶剣法など(主に心剣道の内容を成すことと見える)の剣法を一緒に教えており、一方現在国内には原告側の大韓海東剣道協会と被告側の韓国海東剣道協会以外の「国際海東剣道連盟」、「道法海東剣道会」、「韓国伝統海東剣道協会」、「海東心剣道協会」などの団体が海東剣道という名称を利用し各々その傘下に数十~百余に至る体育道場を所属させて活動しており、原告は国内に160余個(200個以上だと主張したりする)、被告がやはり国内外をひっくるめて相当な数の体育道場をその所属道場にして運営されている。


では白頭山の師匠とは誰なのか?

▲ いまや海東剣道創設当時の歴史と誰がどんな剣法を作り上げたのかが明確になった。どうせ高句麗とは全然関係がないし、何人かの手によって最近作られた武術であるということだ。

それならキム・チョンホ氏が自分に武術を教えたと粘り強く主張する白頭山師匠は果して誰だろう? 初期に海東剣道を学んだ人々はキム・チョンホ総裁がたまに 「白頭山のチョン・ソンニョの話」をしたと回想する。逹磨大師が白頭山へ来てチョン・ソンニョに自分の腕を切って捧げて武術を伝授したというのだ。もちろん逹磨大師が隻腕だということは仏教係では認められていない偽りだ。

-- (中間省略) --

キム・チョンホ総裁は気天を学んだから、気天の説話を海東剣道の説話で変化させて語ったとしてもおかしなことはないし気天を修練した一部の人々が冠岳山の庵に集まって修練した時代もあったので、白頭山師匠が冠岳山で自分に海東剣道を教えたというキム・チョンホ氏の主張の根拠が明確になる。

結局白頭山師匠と言うのは気天のパク・テヤン氏だったのだ。

…また心剣道創始者キム・チャングシク総裁の証言によれば、自分が心剣道を教えたソン某氏が後で冠岳山で100日祈祷に精進しながら、風車剣法というのを創案したが、現海東剣道の創始者たちがそこでその剣術も学んだと言う。冠岳山で海東剣道を教えた白頭山師匠という虚構の人物はこんなさまざまな事実を基礎して形状化されたのだった。しかしパク・テヨン氏とソン某氏を白頭山師匠に格上げさせた功労はキム・チョンホ総裁のアイディアであったようだ。

(出処: 「海東剣道は本当に裁判所の判決で、偽りだと判決されたんですか?」 - ネイバー知識iN)

2011年7月18日月曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その6

大和時代の仏教

552年、韓国・百済の皇帝は、いくつかの仏典と共に仏画を日本へ送った。日本の欽明天皇はこの贈り物を喜び、日本で最も有力な氏族である蘇我氏は、日本の新たな宗教として仏教を承認するよう迫った。仏教は、文明化された西方の宗教であり日本はちょうど、中国と韓国の文化を積極的に取り入れ始めたころであった。

天皇と蘇我氏を除くと仏教への受容はあまり熱心ではなかった。各々の氏族は、自分たちの神や太陽の女神アマテラスを信仰していた。日本は天地開闢の中心地であり、日本人は選ばれた民族であった。その一方、海外の神である仏陀は宇宙を創造したわけでも、神々の殿堂で中心的役割を果たしているわけでもない。はたして彼に土着の神々を怒らせるほど価値があるのだろうか?日本の土着宗教の荒ぶる神々が成し得なかったどんなことを、仏陀は提案しなければならなかったか?

仏教に対する保守的反発は圧倒的であった。蘇我氏はこの仏画を奉納する社を建立し、これを敬い始めた。しかしこの思想が日本に広がり始めると、保守的貴族らはこの仏画を破壊するよう天皇に要求した。この仏画は穴に捨てられ、蘇我氏はこの社に火をつけることを強制された。

数十年後、584年に仏教は再び日本にやってきた。その到来にはまたも蘇我氏が尽力した。蘇我氏のひとりに2枚の仏画が与えられると、彼は仏画のために寺院を建立し、社を管理するため一人の少女を尼僧に叙任した。前回同様、思想は日本を覆い、仏画は破壊された。しかし韓国が仏僧を送りはじめ、日本の憲法を編纂した摂政・聖徳太子の改宗の説得に成功した。実際、聖徳太子は熱烈な仏教徒となった。朝廷内における仏教の体制が恒久に確立したのである。

奈良時代の仏教

奈良時代(709-795)は日本の仏教の隆盛期だ。しかしその影響は首都と朝廷に限定される。日本の大部分は中国の都市的文化や中国仏教の文化的影響を受けていない。それでもなお、奈良仏教の最初期は韓国と中国の仏僧によって独占されていた。彼らは仏教の儀式・衣服・建築・芸術・書籍を持ち込んだ。奈良時代は日本への文化輸入がもっとも活発に行われた時代であった。日本に流入した仏僧は文化的品々を持ち込んだだけでなく、非仏教の概念、たとえば道教の中国宗派・儒教・陰陽論をも持ち込んだ。

奈良時代の日本の仏教徒は大部分が韓国・中国人であったため、同時代の唐仏教と奈良仏教は基本的に同一だ。

三つの主要宗派がこの時代の日本・中国仏教界を席巻していた。すなわち三論宗・法相宗・華厳宗である。他のすべての中国仏教と同様、これらの宗派は2世紀のインドで興った大乗仏教の支流である。この三宗派はすべて、宇宙は常に流動的で常に変化し続けていると信じている。この真諦には、外部世界や偽の感覚認識から開放されなければ到達できない。これらの宗派は、徹底的に道徳的であると自認していた。大乗仏教の大原則にのっとって彼らは、全員の帰依を期待していない。出家生活に身を捧げられないものであっても、現世で利他的な心がけを持てば悟りへの道が開かれる可能性が残っている。たとえば華厳宗は、彼らが大きな花輪の一部であるかのようにすべての人間が相互に関わりあっていると教える。彼らは共有と親睦を強調した。

しかし仏教徒の究極の目的は仏教僧による統治であり、そのような君主がこの地上に仏陀の地を築き上げることであった。766年、日本はこの理想に限りなく近づいた。女帝・称徳天皇は法相宗の法王・道鏡の勧めで皇位を退こうとした。しかし保守的貴族の反対で、日本は世界初の仏陀の地となることに失敗した。

2011年7月15日金曜日

Japanese diffused Hangul to Korean; Korea And Her Neighbors by Isavella Bird Bishop

 

Anthor evidence about that Japan had diffused Hangul (Korean alphabet) to Korean from Korea And Her Neighbors by Isabella Bird Bishop published in 1897.

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Isabella Bird Bishop(1831-1904) was an English explorer and writer who travelled East Asia in late 19C. Korea and Her Neighbors is one of the most valuable journey book as a primary source about 19th century Korea through Europian eyes.

En-mun, the Korean script, is utterly despised by the educated, whose sole education is in the Chinese classics.

Only women, children, and the uneducated used the En-mun till January, 1895, when a new departure was made by the official Gazette, which for several hundred years had been written in Chinese, appearing in a mixture of Chinese characters and En-mun, a resemblance to the Japanese mode of writing, in which the Chinese characters which play the chief part are connected by kana syllables.

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So what is occured in 1895?

In July, 1894, Mr Otori made the useful innovation of publishing the Gasette in clear type, and in the following January [1895] it appeared in a mixture of Chinese hieroglyphs and En-mun, the "vulgar script" of Korea, and became intelligible to the common people.

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Otori Keisuke(1833-1911) was a Samurai in Tokugawa era, later a diplomat in Maiji era. (Of course he was a Japanese.) He was also known as a inventor of “Otori Type” which is a clear type Japanese and Chinese font. He was sent as an ambassador to Korea in1984 and applied Otori Type to Hangul to publish Gazzete from 1895.

Thanks to that, ordenary Korean people finally could access to official announcement which had been dominated by the Korean Establishment until that time. This obviously served as a foundation for Korean democracy.

Yes, again, Japanese diffused Hangul as "official" language in Korea.

2011年7月13日水曜日

Did Japan ban Hangul?

Most of Korean believe (or want to believe) that Japan had banned Hangul in Korea during Japanese Annexation era(1910-1945).
But actually, Japan had provided Hangul education to Korean. Let’s see the text book at the time.
Front cover: “Common School, Korean Language Text Book Volume One”
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Hangul scripts
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Katakana(Japanese script) and Hangul. The man and the boy wear traditional Korean cloth.
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Discription: “1923 July 7th. Published by Government-General of Korea.”
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BURN THE TEXTBOOK! Evil Imperial Japan should had eliminated all korean culture!!

2011年7月11日月曜日

The fact about Hangul ban

There is a sad history that the use of Hangul (the Korean alphabet) was prohibited in Korean peninsula.

The Time that Hangul “the Ethnic pride of Korean” was banned was NOT the infamous Japanese annexation era but the age of Yeonsan-gun and Jungjong ,who was the 10th abolished king and 11th king of Korea's Joseon Dynasty, in the 1500's when Korean mind ultimated level of “admiring” and “serving” the Chinese Civilization.

It is the established fact that particular Korean kings, who made a serious commitment to the chinese civilization, banned the use of Hangul and burned books of Hangul.This facts is specified in The Annals of the Joseon Dynasty, which are the official annual records of the Joseon Dynasty of Korea.

The 10th year of Yeonsan-gun(1504), July 20th, 2nd article:

“今後諺文勿敎勿學, 已學者亦令不得行用。 凡知諺文者, 令漢城五部, 摘告。 其知而不告者, 幷隣人罪之”

“In the future, do not teach Hangul, do not learn Hangul, and people who have already learnt Hangul must not use the language. People who doesn't report on the fact that who knows hangle will be punished along with the neighbors.”

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The 10th year of Yeonsan-gun(1504), July 22th, 7th article:

“諺文行用者, 以棄毁制書律, 知而不告者, 以制書有違論斷。 朝士家所藏諺文口訣書冊皆焚之, 如飜譯漢語諺文之類勿禁。”

“People who use hangle will be harshly punished by ‘damaging document law(棄毀制書律)’. People who doesn't report on the fact that who knows hangle will be harshly punished by ‘violation document law(制書有違論)’. Burn all books of Hangul and Gugyeol[*1],which are in the possession of the official’s house.”

*1...Gugyeol is a system for rendering texts written in Classical Chinese into understandable Korean.

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After the “Hangul ban”, some people who used hangle were panished by Yeonsan-gun. And some Hangle documents were found but the officials can’t distinguished who’s by handwriting. So he made all the people who learnt Hangle write four books for handwriting analysis. Yeonsan-gun “the tyrant” worked toward the unreasonable reign.

Well, After Yeonsan-gun was dethroned, Jungjong of Joseon, who succeeded Yeonsangun's half-brother, ruled Korea. As a result, was Hangul “the pride of Korean” restored? ...No, such a situation never happened in Korea.

The 1st year of Jungjong(1506), November 4th, 11th article:

“革諺文廳。”

“Close Eonmun-cheong(the institution of the Hangul study).”

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He easily closed the only public institution that studied Hangul.