2011年12月23日金曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「倭剣」(1)

cp0303000009_00001 (734x1024) 【増】茅元儀曰く「日本刀は大小長短、同じものがない。人ごとに長刀一振りを有し、これを佩刀という。また、雑用に便利な小刀一振りをその刀の上に差す。さらに、一本の刺刀があって、長さが1尺のものを解手刀という。長さが一尺を越えるものを急抜というが、これもまた刺刀の類いだ。
cp0303000009_00002 (744x1024) この三者を随時身に着け、必ず用いる。刀は極めて強く鋭く、中国刀では及ばない。刀の大小を問わず必ず柄の片面には名を刻み、もう片面には字号を刻む。時代を通じてその良し悪しを判断するためである。槍剣もまた然り。日本の上庫刀は、山城君(関白)全盛の時代に各島々の名匠を全て集めて倉の中に閉じ込め歳月を限らずその工巧を尽くさせたものだ。このため上庫刀と名付けられた。中でも寧久と号するものがより一層良い。」

【案】 三代の時代には、鍾・鼎・戈・戟など大小の武器を用い、全てに款識(『史記』孝武帝紀に「鼎文鏤に款識がない」とある。 注:款は刻。 識は記。楊慎曰く「文に、凸は陽刻で刻むこと、凹は陰刻で記すこと」)を具えた。『礼記』月令には「物に工人の名前を勒(刻)する」と記され、中国の工匠は今でもこれを遵守する。倭人が製造したものもそうである。

我国は良し悪しを記録した資料がなく評価できないので、勧懲を施しようがない。六工(土工・金工・石工・木工・獣工・艸工)を掌握する者がはやくこれを正し、製造年月・姓名・尺寸・斤両を整えて記録するようにし、過程を考察して方式を区別しなければならないのではないだろうか。

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日本の後鳥羽院(倭の偽皇の号)の時、諸国の良工を召して鍛冶場を開いた。 宗斤・国頼・吉光・国友・国吉・国綱・国宗・正宗・貞宗・定秀・行平・近忠・延房・兼定・国行などは皆が霊剣と称し、この名が彫られたものは全て名剣である。

茅氏が論ずるところを併記し、広く考察する資料とする。

『倭志』に曰く、「倭賊は勇敢だが愚かで生死を重視しない。戦いのたびに、いつも裸体で三尺の刀を手に舞いながら前進してくると防ぐことができない。」

2011年12月17日土曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「双剣」(1)

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【増】刃長2尺5寸、柄長5寸5分、重量8両(【案】今は別に作らず、腰刀の中で最も短いものを選んで使う。 したがって絵は描かない)

『礼器図式』に曰く、「緑営(直隷と各省の漢軍営を緑旗と言った)の双刀は、左右に二振り持ち、全体の長さがそれぞれ2尺1寸1分、刃の長さが1尺6寸であり、幅が1寸。銎(『方言』に曰く、骹を銎と謂い、注には「すなわち矛刃の下口」とある。【案】刀の銎は円形だが、双剣はそれぞれ半円である。これは併せて一つの鞘に納めるためだ)は半円で、厚さは2分。一緒の鞘に納める。柄長4寸9分、木の台に赤いひもを巻きつける。末鉆(鉆の読みは覘。『正字通』曰く「二つの部品を鉄片で溶接したものや、角を鉄片で固定させた物をすべて鉆と言う」)は、鉄。(【案】緑営の双刀は最も短い刀とし、双刀をひとつの鞘に納めることで法式に値する)」

『武編』に曰く、「宋の太宗は、勇士数百人を選抜し剣舞をさせたが、皆剣を空中に投げその身を飛ばし左右から受け取った。その時ちょうど北戎(契丹)が使臣を派遣し御殿で宴会を施していたので、剣士を呼んで剣舞を披露した。上着を脱いで太鼓を打ち鳴らしながら刃物を振り回し、入っては跳び、投げては受けると、霜や雪のように白い刀が空中を満たした。蛮族の使者はこれを見て、顔に恐れの色が現れた。城を巡るごとに、剣舞をしながら武を誇示し、敵の群れ先導して城壁を上がってくるのを見て肝をつぶした」

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『元史』王英伝に、英(字は邦傑で益都人、官職は莒州千戸)は双刀を善く用い、刀王と号したとある。

『兵略纂聞』に曰く、「劉顕(南昌人で、官職は都督、劉綎の父)は、兜と鎧を着なくても敵に会えば両刀をかかげて跳躍するほどに敏捷で、刀を振り回すと刃が見えなかった」

【案】刀剣は、身を衛るために作った武器なので、昔は必ず法術があった。もし後世に譜訣があったならば、魯句践(戦国時代の邯鄲人、荊軻と巡游した)は、荊卿が剣術に粗略なのを嘆いただろう。(『史記』巻86「刺客列伝」)

周と秦からは考証することがない。しかし、『家語』に曰く、「子路が戎服で孔子に会い剣を抜いて舞いながら言った、“昔の君子は、剣で自分を守りました”」

『史記』に曰く、「項羽が劉邦と会った時、項庄と項伯が剣を抜いて舞った」