2011年9月23日金曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「双手刀」

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【原】○本名 長刀、俗称 用劒 平劒。

【原】戚継光曰く“刃長5尺、後に銅護刃1尺を用いた。 柄長1尺5寸、併せて6尺5寸、重量2斤8両。この刀は倭寇が中国を侵したときに初めて見られるようになった。彼らがこの刀を手にして舞うと光閃の前に、我が兵たちは気を奪われ、倭人は一丈余り一躍し、遭遇した者は両断された。これは刀が鋭利で、しかも両手で使用するので力をこめられるためだ。今日でも、(刀だけ)単独で用いては防御できない。ただ鳥銃を兼用すれば防御可能で、賊が遠ければ鳥銃を発射し、近ければ刀を用いる。

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【案】本名は長刀だが、今日では双手刀と呼ぶことが増えたのは双手(両手)を使うという文があるためだ。今日ではこの劒制は使わないので、腰刀で代用して稽古する。ただしその名前だけが残った。茅元儀曰く“長刀は倭奴の制度である。 歩兵には非常に有利な武器だが、昔は備えられていなかった。”しかし『中華古今注』に曰く“漢世伝に高帝が白蛇を斬った剣の長さが7尺だった”とある。『漢書』広川恵王越(漢景帝の息子)に“孫去が7尺5寸の刃物を作った。”とある。『後漢書馮異伝』に“車駕が河南に達して送別する時、7尺もある玉具劒を下賜した。”とある。『刀劒録』には“周国昭王が五振りの剣を鋳造したが各々五嶽の名前を付けた。鎮嶽は長さ5尺だった”とある。石季龍(五胡後趙の石虎、字は季龍)の剣は長さ5尺だった。慕容垂(五胡の後燕)の二振りの剣は長さが7尺で、一振りは雄で一振りは雌だった。そうであるならば、長刀の由来もやはり古い。

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