2011年9月27日火曜日

【翻訳】『武藝圖譜通志』「提督劒」

cp0303000011_00001 (698x1024)

【増】鋭刀と同じ、すなわち腰刀である。
【案】提督剣14勢は李如松(字は子茂、鉄嶺衛人で寧遠伯・成樑の子。官位は太子太保で諡号は忠烈。五世祖・英は本来朝鮮の楚山人だが明国に内附した)がその法を伝えている。
神宗朝[万暦帝・1572-1620]の提督で、壬辰倭乱時にわが国に来た者は、劉綎(字は省吾、南昌人で都督・顕の子。官位は総兵)、 麻貴(大同右衛人で官位は右都督)、董一元(宣府前衛人で官位は太子太とみられる)、李承勛(字は錫庸、処州衛人で官位は総督)、 陳璘(字は朝爵、翁源人で官位は都督)などだが、諸人では劉が大刀で天下に名を知らしめた。

cp0303000011_00002 (744x1024)

『懲毖録』に曰く、「癸巳(先祖26,1593)の夏に病気で漢城の墨寺洞に横になっていたが、明の武将・駱尚志(余姚人であり、左参将としてわが国にきた。 千斤を持ち上げることが出来たので駱千斤と呼ばれた)が私が横になっている家を訪問して因って言うには“朝鮮は微弱で、しかも倭賊はまだ朝鮮の土地にいる。我々明国の兵が帰国しないうちに兵法を習えば国を守ることができます”と。私がすぐに状啓[王への報告書]を上げて禁軍・韓士立を招いて70人余りを募って駱公の元で教えを求めるようにすると、駱公は麾下の張六三など10人を選んで教師にして、槍、剣、狼筅などの技を練習させた」(『懲泌録』録後雑記 9版;『西厓全書』 1巻810ページ)。
駱公は李提督の部下だったので、提督剣の名称がここから出ただろう。中軍・李源(李如松の5世孫)曰く、「提督が我が国にいるとき通津琴氏の娘を取って侍姫としたが、妊娠をすると剣を与えて『息子が生まれたら名前を天根にしなさい』と言った。 後に天根を生み、天根の子孫が巨済にたくさん住んでいる」
英祖丙寅年(1746, 英祖22)に統制使・李彦祥が天根の玄孫・茂春の元でその剣を見つけ、この故事を鐔に刻んで柄と鞘を作り、今ではその剣は再び提督の家に戻っている。

cp0303000011_00003 (744x1024)

刃長は3尺4寸、鐔は9寸であり二つの穴がある。刃の幅は1寸5分であり、上殺は2分、背厚は3分5厘、末殺は1分5厘だ。刀面には「張」の字が円中に楷書で陽刻されている。上にある縦の釁(音は許勤切、意味は痕)は蜿蜒(『焦氏易林』によれば "蛇がくねくねのたくりながら進む" という意味)とした細い金で今でもさびがついていない。
これはたとえ撃刺法では無いとしても提督剣にとって喜ばしい。故にそれを取って絵と同時にその故事を記す。

0 件のコメント:

コメントを投稿