| 『懲毖録』に曰く、「癸巳(先祖26,1593)の夏に病気で漢城の墨寺洞に横になっていたが、明の武将・駱尚志(余姚人であり、左参将としてわが国にきた。 千斤を持ち上げることが出来たので駱千斤と呼ばれた)が私が横になっている家を訪問して因って言うには“朝鮮は微弱で、しかも倭賊はまだ朝鮮の土地にいる。我々明国の兵が帰国しないうちに兵法を習えば国を守ることができます”と。私がすぐに状啓[王への報告書]を上げて禁軍・韓士立を招いて70人余りを募って駱公の元で教えを求めるようにすると、駱公は麾下の張六三など10人を選んで教師にして、槍、剣、狼筅などの技を練習させた」(『懲泌録』録後雑記 9版;『西厓全書』 1巻810ページ)。 駱公は李提督の部下だったので、提督剣の名称がここから出ただろう。中軍・李源(李如松の5世孫)曰く、「提督が我が国にいるとき通津琴氏の娘を取って侍姫としたが、妊娠をすると剣を与えて『息子が生まれたら名前を天根にしなさい』と言った。 後に天根を生み、天根の子孫が巨済にたくさん住んでいる」 英祖丙寅年(1746, 英祖22)に統制使・李彦祥が天根の玄孫・茂春の元でその剣を見つけ、この故事を鐔に刻んで柄と鞘を作り、今ではその剣は再び提督の家に戻っている。 |
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