2011年7月11日月曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その5


奈良

日本の政治において最も深遠な変化は、聖徳太子の十七条憲法における中国式の(特に儒教的な)政治モデルの採用だ。聖徳太子の元で行われた改革は、大和朝廷が直面していた国内問題を解決しただけでなく日本の歴史も劇的に変えた。

日本の時代区分には、その当時に都が存在した地域の名前が付けられる。710年、都は奈良の北部に遷された。中国の都・長安に倣い、厳密な格子状にレイアウトされた都市が慎重に設計された。その名は、恒久的な首都を意味していたがわずか80年後に再び遷都した。

とはいえ奈良時代の日本は、基本的に村ベースの農耕社会であった。多くの日本人は竪穴式住居に住み、自然神や先祖を信仰していた。中国の都をモデルとした首都の設計は、日本の貴族たちを庶民から劇的に疎外することとなった。この村社会・竪穴式・神信仰の世界は、宮殿都市・絹・富・漢字・中国思想・仏教の世界へと成長した。奈良の都は、日本の貴族が、それまでの氏族から決定的に異なるものになったことを象徴している。

奈良時代における最も影響のあった文化的発達は、仏教の隆盛である。唐から輸入した複数の仏教宗派が首都のあり方を形作った。仏教は大部分が首都のみの現象であり、これは平安時代に入っても同様であった。しかしこの時代の仏教の活気は、日本の政治に仏教が緊密に統合されることにつながった。奈良時代の天皇たちは特に、金光明経と呼ばれる経典を深く崇敬していた。この経典によって仏陀は、単に歴史上の一人物としてでなく宇宙の法や真理として確立した。「善悪を判断できる智慧を万人はもっている」「適切な仏教生活を送る人物に成ることが生の意味である」「政治的には、全ての人間界の法は宇宙の究極の法を反映すべきである」と、この経典は主張する。しかし法は、物質世界の事象であるがゆえに絶えず変化していくものである。この考えが日本の君主たちの統治の道徳規範となり、法やルールを状況次第で都合よく解釈する事への正当性を与えた。

奈良時代の天皇たちが仏教に対して抱いた信心は、日本文化への仏教の急速かつ劇的な広がりを担保した。日本に仏教が伝来したのは518年ではあるが、日本文化に確固とした地位を築いたのは奈良時代の間であった。

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