2011年7月22日金曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その9

(この章は:餅 ◆ACiNmI6Dxs さんによる翻訳です)

初期日本の視覚芸術

視覚芸術は日本で非常に早い時期から――事実、12000年以上前から始まった。我々が知っている他の人類とは異なり、日本先住民の縄文文化は、他文化よりずっと以前に陶器を発達させた。人類学の伝統では陶芸は、世界中で農業の発明の後にのみ発生する人類の発達であると考えられる。土器は、農耕に沿って、伝統的に新石器時代文化(Neolithic)から中石器時代(Mesolithic)に分けられる。しかしながら、人類が活動的遠隔農業に従事する数千年前まで、狩猟採集縄文陶器は巧みな土器であるだけでなく、信じられないデザインの手工芸陶器であった。土器は、渦状に積み重ね、高くした線(※しわ?)から作られた、これらの渦の境界線は土器に"縄"のような外見を与えた――それゆえ縄文または"縄"という名がついた。

土器は非常に早く出現したにもかかわらず、縄文人は非常にゆっくりと視角デザインを発達させた。さまざまなデザインの繰り返しを強調させるために指や糸を使って。縄文時代中期(紀元前2500年から1500年)、縄文人はより定住し、人形を製作するようになった。彼らの単純な装飾の陶器は、この時期に非常にエネルギッシュな装飾品へと発展する。一方中期、後期(紀元前1500-1000)と縄文晩期(紀元前1000-西暦300)の人型は識別的人間であり、抽象的で高度な様式化を残している。

建築では、縄文時代中期以降から、人々は地面に4-5フィートほど掘られた竪穴式住居の家に住んでいたことを知っている。竪穴式住居は平安時代になっても標準建築物であっただろう、そして日本書紀と古事記に詳細されているすべての伝説の神々は、室もしくは竪穴住居に住んでいる。

弥生の部で詳細を議論したように、この日本史で短い期間、最後の紀元前300年から西暦300年の間に、もっともドラマティックな文化の変化が日本社会にもたらされた。文化は、クラスベースの文化に半農業親族を基にした文化から、階級を基盤とした文化へ変わった。弥生人は栽培稲、定住農業社会に住んでいた、そして青銅と鉄(正式には"現代"人がそれらを作る)を取り入れた。定住社会と農業の発展は、日本の建築を竪穴住居から建物を造りあげるように変化した。それはただ純粋に儀式的な用具、鐘などの発達を可能にした。土器や金属製の花瓶、精巧で洗練されたデザイン、その多くは中国から輸入された証拠である。日本文化の多くと同様に、多くの弥生時代の芸術と技術は、韓国と中国から輸入されていた。

何よりも古墳時代から際立ってくる視覚芸術は、いくつかは非常に長く、強力な皇帝や他の人のために構築された巨大な墓だ。新世界の文化を含めて多くの文化は、よく似た埋葬建造物のいくつかの種類を開発したが、我々は日本におけるその起源を理解するかもしれない。弥生人は伝統的に、農地を見下ろす丘の斜面に死者を埋葬していた、古墳によってつくられた巨大な墓塚は、恐らくその慣習の延長なのだろう。むしろ丘の中腹の重要な死者の埋葬よりも、古墳日本人は単に彼らのために丘全体を造った。

非常に最高の墓塚と同様に、日本の古墳は真に壮観に見られる。円や鍵穴のような各々の形、これらの塚は、埋葬室をした。5世紀より堀に囲まれた巨大な人工の塚が建設された。それらの最大の仁徳天皇陵は、1600フィート以上の長さで90フィートの高さである、全体の墓は、3つの堀を含んで、ほぼ460エーカーを占めている!

私たちは古墳は芸術であることをよく知っている、なぜなら死者は、副葬品が一緒だからだ。おそらく、それらは次世界へ運んでくれる。食べ物のほかに、これらの副葬品は鉄具や武器、宝石、陶器、鏡と、最も魅力的なものは、埴輪と読んでいる粘土の人形である。

埴輪の正確な性質や目的は謎のままだが、古墳時代の日本は驚異的な数で、それらを作り出した。これらの小さな粘土の置物は、ほとんど常に古墳時代の人々と物質文化の表象のある程度、の現象だった。いくつかの家、盾、道具、および人である。古墳時代の人々は、ある程度自分の周りの世界を代表している、と彼らの表現は、彼らがどのように生活していたかだけでなく、彼らの生き方と考えを垣間見ることができる。

埴輪をつくった人々は古墳時代を通じて技術を改良した、人形土製品は、経済機能に基づいて認識され始める:兵士、狩人、歌手、踊り手、など。人形の最大数は、鎧の男、どの時期も恒久的な争い( 日本紀と古事記、日本初の日本史の部分で確認できる)の一つがあったことを示唆している。また何かの拝謁品を意味する。
埴輪の別の興味的な容姿は、それらは経済機能を象徴してるだけでなく、よく人形の心の様を表現している。戦士の人形は、例えば、中立的な特徴を持つ傾向にある。群馬県で見つかった農夫の埴輪は、むしろ大きな笑顔が認められる、その職人がに農民の生活は比較的自由だったと表現していることを意図している。

弥生時代以降、日本の視覚芸術は、韓国や中国の芸術と容易く分離するものではなくなった。テュムラス;塚墳や古墳時代の埴輪は顕著な例外だが、全体的に視覚芸術は、大陸のモデルを模倣したものであった。この模倣する性質は、7番目と8世紀、日本の視覚的想像力が視覚的な様々なジャンルに爆発し始めたとき遠慮のない、独創性のない奴隷のように思える。

この日本における視覚的想像力の爆発は、寺院の建築で最もダイナミックになる。我々は初期の神道を知っている、実際の建物にはほとんど注目する点がない。ほとんど、いくつかの地は、神聖な小さな神社が建てられたと考えられるが、完全な寺院の礼拝と建築は、初期の神道にとってはエイリアン、外国のものだったようだ。
寺を崇拝するという、その本土との交流でアイデアと習慣は、主に仏教を通じて導入された、この初期は、神道に適用された。

もし古代日本の視覚世界の急激な出立で、唯一のものを選別するならば、寺院の建物は最善の候補となるだろう。日本人は確かに中国モデルをなぞっていている一方、その全面的建築技術のモデルは倉庫で、初期の弥生時代の先住民の建築発展である。高床式倉庫は地面の上に高く米の倉を配置する木の構造物のデザインである。その倉は、倉を持ち上げて、入り口への急な階段の足場が建てられている。

一番最初の神道の寺院は、倉モデルにほぼ近い。これらの寺院の最大のものは、国家神道カルトの中心地となった威厳ある伊勢神宮である。(※倉を原形とする社殿形式が“神明造”(伊勢神宮の正殿が有名))これらの建築複合体の中心は本殿 またはメインホールである。その神道の建築は、仏教のものとは異なり、ほぼ完全に儀式用建築である。神社の複合体は、浄化の儀式の連続について、一つあなたは言うかもしれない、神道の神々は主に自然の力なので、建築は自然の形成である、儀式を構成する空間的な部分としての川や森など。例えば、伊勢神宮では参拝者は鳥居やをくぐり、または盥で口や顔を清め洗う。これらの譲歩は、しかしながら、川へ、古代日本では複合体の継続の間を渡らねばならなかった。この川清めを通り抜ける、完全でさえある、そして鳥居。(※古くは神前に流れている川で手を洗い口をすすいだりして清めたのを説明?)

これは理解しておくことが重要です。神道の建築について我々が収集した内容から、人間の作った物質は、自然界の延長を意味していた。人工建築物と自然界の包囲の人工的差異は、神道の視覚的な想像力に影響があったのではないのだろう。

参拝者がこれらの巨大な神社の複合体から、人工的建築と自然の姿にほとんど違いを見ていないということがかなり可能である。

先に述べたように、寺院の建物は、主に仏教を通じて導入された。この宗教は、しかし、日本では不安定なスタートを切った。593年、最初の仏教寺院、四天王寺、奈良(現在の大阪)に建設された、までなかった。これらの初期の寺院はほとんど韓国の仏教寺院の隷属的な(独創性のない)イミテーションだった、中央の仏塔に、屋根つき廊下ですべて囲まれた三つの建物kondo(金堂)で構成している。

0 件のコメント:

コメントを投稿