大和時代の仏教
552年、韓国・百済の皇帝は、いくつかの仏典と共に仏画を日本へ送った。日本の欽明天皇はこの贈り物を喜び、日本で最も有力な氏族である蘇我氏は、日本の新たな宗教として仏教を承認するよう迫った。仏教は、文明化された西方の宗教であり日本はちょうど、中国と韓国の文化を積極的に取り入れ始めたころであった。
天皇と蘇我氏を除くと仏教への受容はあまり熱心ではなかった。各々の氏族は、自分たちの神や太陽の女神アマテラスを信仰していた。日本は天地開闢の中心地であり、日本人は選ばれた民族であった。その一方、海外の神である仏陀は宇宙を創造したわけでも、神々の殿堂で中心的役割を果たしているわけでもない。はたして彼に土着の神々を怒らせるほど価値があるのだろうか?日本の土着宗教の荒ぶる神々が成し得なかったどんなことを、仏陀は提案しなければならなかったか?
仏教に対する保守的反発は圧倒的であった。蘇我氏はこの仏画を奉納する社を建立し、これを敬い始めた。しかしこの思想が日本に広がり始めると、保守的貴族らはこの仏画を破壊するよう天皇に要求した。この仏画は穴に捨てられ、蘇我氏はこの社に火をつけることを強制された。
数十年後、584年に仏教は再び日本にやってきた。その到来にはまたも蘇我氏が尽力した。蘇我氏のひとりに2枚の仏画が与えられると、彼は仏画のために寺院を建立し、社を管理するため一人の少女を尼僧に叙任した。前回同様、思想は日本を覆い、仏画は破壊された。しかし韓国が仏僧を送りはじめ、日本の憲法を編纂した摂政・聖徳太子の改宗の説得に成功した。実際、聖徳太子は熱烈な仏教徒となった。朝廷内における仏教の体制が恒久に確立したのである。
奈良時代の仏教
奈良時代(709-795)は日本の仏教の隆盛期だ。しかしその影響は首都と朝廷に限定される。日本の大部分は中国の都市的文化や中国仏教の文化的影響を受けていない。それでもなお、奈良仏教の最初期は韓国と中国の仏僧によって独占されていた。彼らは仏教の儀式・衣服・建築・芸術・書籍を持ち込んだ。奈良時代は日本への文化輸入がもっとも活発に行われた時代であった。日本に流入した仏僧は文化的品々を持ち込んだだけでなく、非仏教の概念、たとえば道教の中国宗派・儒教・陰陽論をも持ち込んだ。
奈良時代の日本の仏教徒は大部分が韓国・中国人であったため、同時代の唐仏教と奈良仏教は基本的に同一だ。
三つの主要宗派がこの時代の日本・中国仏教界を席巻していた。すなわち三論宗・法相宗・華厳宗である。他のすべての中国仏教と同様、これらの宗派は2世紀のインドで興った大乗仏教の支流である。この三宗派はすべて、宇宙は常に流動的で常に変化し続けていると信じている。この真諦には、外部世界や偽の感覚認識から開放されなければ到達できない。これらの宗派は、徹底的に道徳的であると自認していた。大乗仏教の大原則にのっとって彼らは、全員の帰依を期待していない。出家生活に身を捧げられないものであっても、現世で利他的な心がけを持てば悟りへの道が開かれる可能性が残っている。たとえば華厳宗は、彼らが大きな花輪の一部であるかのようにすべての人間が相互に関わりあっていると教える。彼らは共有と親睦を強調した。
しかし仏教徒の究極の目的は仏教僧による統治であり、そのような君主がこの地上に仏陀の地を築き上げることであった。766年、日本はこの理想に限りなく近づいた。女帝・称徳天皇は法相宗の法王・道鏡の勧めで皇位を退こうとした。しかし保守的貴族の反対で、日本は世界初の仏陀の地となることに失敗した。
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