2011年7月19日火曜日

【日本語訳】法廷で明かされた海東剣道の歴史と真実

海東剣道に関する法廷劇を翻訳しました。まず理解のために簡単に経緯を押さえておきましょう。

  1. 海東剣道(Haidong Gumdo)は1980年代、キム・チョンホとナ・ハニルによって二つの朝鮮ウリジナル武道からコリエイトされた。元になった武術の一つは「心剣道(Shim Gum Do)」、もう一つは「気天門(Ki Chun Moon)」。
    • 心剣道はキム・チャンシクという坊さんが1965年に100日瞑想をしている途中に思いついた武術(ということになっている)。実際には剣道のパクリ。
    • 気天門は1960年代にパク・テヨンらが韓国に広めた武術。朝鮮武術ということになっているが、やはり実際には太極拳・詠春拳・南派蟷螂拳のパクリ。
  2. キム・チョンホとナ・ハニルは高校の同級生で、ともに坊主のキム・チャンシクから心剣道を習っていた。坊主が偉大な朝鮮武術を広めるために渡米すると道場を引き継いだ。
  3. 経営不振で道場は潰れた。その後、映画会社の支援を受けて「気天門」の道場へと鞍替えした。このころ「海東剣道」を名乗るようになり、高句麗の士武郎(Samurang)が起源だということにする。しかし韓国内でさえ知名度は無きに等しかった。
  4. キム・チョンホが俳優としてTVドラマに出演する。ドラマの中で「海東剣道」が登場し道場が人気となる。キム・チョンホとナ・ハニルは剣道の達人として名声を得る。
  5. 大韓剣道協会が、ナ・ハニルを「剣道7段を詐称した」として告訴する。
    • ナ・ハニルは「私は大韓剣道7段ではなく海東剣道7段だ」というアクロバティックな言い訳を思いつき、自前で段位証を作成して難を逃れる。
    • この法廷争いによって、海東剣道はますます知名度を得る。
  6. 心剣道の坊主キム・チャンシクが、キム・チョンホとナ・ハニルの二人を「心剣道をパクッた!」として告訴する。
    • 二人は、海東剣道が心剣道と気天門のパクリであることを認める。
    • それまでの「海東剣道の起源は高句麗の士武郎」という主張が嘘と判明する。
  7. 組織拡大により、金銭問題が発生。組織が分裂する。
    • キム・チョンホは「大韓海東剣道協会」を発足
    • ナ・ハニルは「韓国海東剣道協会」を発足
  8. キム・チョンホがナ・ハニルを告訴する。金がらみで内ゲバに発展、という美しい朝鮮様式美である。

以下、翻訳文です。原文はhttp://blog.daum.net/_blog/BlogTypeView.do?blogid=06zf6&articleno=9050199&admin=#ajax_history_home


<法廷で明かされた海東剣道の歴史と真実>

1990年代入ってから海東剣道の創始者であるキム・チョンホ氏とナ・ハニル氏、心剣道のキム・チャンシク氏は終りが見えない法廷訴訟と誹謗戦を始めた。この過程でベールに隠されていた海東剣道の歴史と真実が一つ二つ現われ始めたが、結局大韓民国の法院が海東剣道の歴史を暴いた模様になった。法院で現われた海東剣道の歴史を一つずつ細かくよく見よう。

▲水原地方法院城南支院の第5回公判調書の一部の認証の訊問調書に見れば次のように出ている。

(事件番号 99 高段 1738 名誉毀損 証人訊問調書)問:証人(ナ・ハニル)は双手剣法、心象剣法、鋭刀剣法、本国剣法、長白剣法、陰陽剣法、太極剣法、海東剣法、双剣法を知っていますか?
答:証人(ナ・ハニル)は双手剣法、心象剣法、鋭刀剣法、本国剣法、双剣法は知っているが、長白剣法、陰陽剣法、太極剣法、海東剣法は知りません。

問:証人(ナ・ハニル)は誰から上のような剣法を習ったのですか?
答:証人(ナ・ハニル)と被告人キム・チョンホは公訴外キム・チャンシクから心剣道を初めて習い、その次に気天門を習い心剣道と気天門は剣の基本になり、双手剣法は証人(ナ・ハニル)が作り、心象剣法、鋭刀剣法は証人(ナ・ハニル)と被告人キム・チョンホが作り、本国剣法は証人(ナ・ハニル)と被告人キム・チョンホが武芸図譜通志を見て現実にふさわしく定立させたので、海東剣道は学んだのではなく心剣道、気天門その他すべての運動が混合して現実にふさわしく定立するよう誕生されたのです。

問:上記のキム・チャンシクの心剣道の中に双手剣法、心象剣法、鋭刀剣法、本国剣法があるんですか?
答:ないです。しかし剣の基本は心剣道と気天門です。

問:証人(ナ・ハニル)は「海東剣道」という言葉が1982年頃に初めて使われた事実が分かっていますね。
答:はい。

問:この用語は誰が作ったのでしょうか。
答:公訴外ツェ・テミン牧師が作りました。

問:証人は1983頃被告人キム・チョンホと一緒に心剣道体育館を運営しているさなか門戸を閉めた事実がありますね。
答:看板だけ変えただけで、運動は続きました。

問:証人は心剣道と海東剣道はお互いに違う内容の剣道である事実が分かっていますね。
答:違うのではなく、関連性があります。

▲上の証人訊問調書を検討して見ればいくつか事実が分かる。
[第一] 海東剣道はキム・チョンホ氏とナ・ハニル氏が一緒に作ったものだという事実であり、
[第二] 海東剣道の名称はツェ・テミン牧師が作ったということであり、
[第三] 初期にキム・チョンホ、ナ・ハニル氏は心剣道道場の看板を変えたということであり、
[第四] 海東剣道は心剣道と気天門から派生された剣道ということだ。

今まで高句麗の士武郎(サムラン)が修練したものと宣伝して来た海東剣道創始者たちの言動を推し量ると、法廷での証言は無気力きわまりない。とにかく証人宣誓までして証言したことだから、私たちも事実で受け入れるしかない。ナ・ハニル氏の証言によれば「心象剣法、本国剣法は一緒に作り、双手剣法は自分が作った」と言う。海東剣道創始者としては初めて高句麗武術ではなく、自分たちが作り出した剣術だと証言した意味ある法廷証言に違いない。海東剣道が高句麗から伝承された伝統武芸と純粋に信じていた一部修練生たちは失望で泣くかもしれない。


海東剣道と心剣道と気天門との関係は?

▲海東剣道が20余年前に小部屋で作られた剣術なら、白頭山師匠は何者であり、心剣道、気天門との関係はどうなることだろう?この質問に対する返事もやっぱり法廷で選り分けることができた。キム・チャンシク氏がナ・ハニル氏をソウル地方検察庁に告発した訴状に見れば、

「『海東剣道教本』(ガン・ヤンウク著)第75ページから第76ページにある歴史の項に見れば原告とは全然関連がない海東剣道をまるで原告が受け継いだものであるかのように全然事実と違う内容で記述し原告が創始した心剣道(先防剣法及び先攻剣法)は海東剣道と全然無関係なことなのに海東剣道の一部として原告の許諾もなしに無断で載せたので…」

とされている。
心剣道の創始者であるキム・チャンシク氏も心剣道は海東剣道ではないと主張しているのだ。キム・チャンシク氏が「図書等製作発売配布禁止仮処分」申込書で申し込み主旨を明らかにした部分に見れば、「心剣道は片手で使う特徴があって、他の剣道は両手を使う」と書いている。現在海東剣道は心剣道と違い両手を使う双手剣術が主流だ。

キム・チャンシク氏は本紙とのインタビューで自分がナ・ハニル、キム・チョンホ氏を直接教えたと確かに明らかにしたが、どうして心剣道と海東剣道は違うのか? そして海東剣道の初期創始者たちも気天門を修練した当時に気天門で剣術を学んだ事はないと明らかにした事がある。真実は簡単だ。

心剣道と気天門を俳優キム・チョンホ氏とナ・ハニル氏は片手を使った心剣術の剣訣に 気天門の身法や鍛練方法を混合し、双手剣術として創作したのだ。本人たちが明らかにしたところのように剣の基本は心剣道と気天門だ。その証拠に海東剣道は今も内家神掌と小刀勢、復虎勢、大刀勢、及び開運氣孔のような気天門特有の修練方法を採択している。70、80年代当時のキム・チョンホ、ナ・ハニル氏を知る人々は、彼ら二人が会って数日の間一緒に各種武術書を床に広げ工夫をしては、剣法が一つずつ誕生したと述懐する。水原地方法院城南支院の証人訊問調書でナ・ハニル氏が明らかにしたことと一致する証言だ。


ソウル高等法院の決定文

ソウル高等法院第4民事部の決定文(事件番号97라91。不正行為中止仮処分)に見れば、その間法廷訴訟をしながら整理された海東剣道の歴史が赤裸々に現われている。法院が武林の紛争を仲栽して歴史記録を残すようになったというところに私たちのすべての武術人たちは恥ずかしさを感じなければならないでしょう。今こそソウル高裁の判決文に記録された「認定事実」を一字の添削もなしに公開する。この記録は海東剣道の歴史を勉強しようとする武術人や学者たちにも一番信頼性ある立派な資料になるでしょう。

▲(原告、抗告人: 世界海東剣道連盟。被告、相対方: ナ・ハニル)

ソウル高等法院の決定文(事件番号 97라91、不正行為中止仮処分)

나。認定事実

…このような理由から察するに記録によれば下のような事実が認められる。

(1) 被告と原告の代表者であるキム・チョンホは徐羅伐高等学校同期同窓で高等学校在学時代の1970年頃ソウル新堂洞にあった心剣道護法総館に入館し訴外キム・チャンシク館長指導の下に心剣道を学ぶなど一緒に武術を研いてきわめて親しく過ごした。

(2) 1975年頃キム・チャンシクがアメリカへ移民に行くと被告は武術館を引きつぎ(その頃はキム・チョンホとは離れている状態だった)運営していた1977年頃運営不振でこれを閉館した後また申請外パク・テヨン氏から「気天門」の師事を受け、1980年の初めヒョンジン映画社キム・ドワン会長の後援でソウル瑞草洞63の6シンヤンビルディング301号で「気天門」という名称の剣道場を開館、運営し(その後「心剣道体育館」と改称し、「ヒョンサン映画社武術スタジオ」と併記された看板を使った)、キム・チョンホは1982年頃の瑞草洞道場でまた原告と一緒に働くようになった(原告は当時キム・チョンホが上記道場の館長であったと主張し、被告は被告の勧誘でキム・チョンホが師範として働くようになったと主張するが、記録に現われた当時の上記体育館の規模及び運営状況などに照らせばこれはあまり重要な問題ではない)

(3) 一方被告は上記道場を運営していた1984年頃道場で運動を学んだ訴外故ツェ・テミンの提案により当時道場で使っていた「気天門」という名称に代わり「海東剣道」という名称を使い始め(原告はキム・チョンホが1961年頃訴外白頭山から朝鮮伝来の剣法を伝授され、伝授当時剣法の通り名として海東剣道と称するのが適切だという白頭山の教えを奉じて1983年4月頃これを広く伝授させようとソウル江南区瑞草洞63の6に道場を開館し、その名称として「海東剣道」を初めて使ったと主張するが、上の伝授当時のキム・チョンホの年齢、海東剣道という名称を使うようになった経緯と上の名称使用に関する原告の主張が原告側証人であるキム・ジョンスンの証言、すなわちキム・チョンホが1982年頃安養で海東剣道体育館を開館して海東剣道という名称を初めて使った(まもなく海東剣道は1984年4月頃キム・チョンホがソウル瑞草洞63の6シンヤンビルディング3階で海東剣道道場を開館しながら公式商号で使った名称だと述べているという部分とも一致しない点などこれをそのまま受け入れるのに難しい点がある)。1984年5月頃には 「海東剣法概論」という題の被告が編著者になった海東剣道に関する紹介書を発行し、また劇映画武術研究会員選抜大会に「海東剣道協会」という名前で道場をその選抜場所で提供するなど後援したところもあるが、正式に協会が結成される位その加入者の幸運にめぐまれて組職が揃ったのではなかったし、道場以外に海東剣道を教える他の道場が存在したわけなかった。

(4) ところで1985年初頃、上記剣道館の後援者だったヒョンジン映画社が不渡りに直面すると被告は剣道館の運営を中断するようになり(被告は剣道館の門を閉めた後、被告もキム・チョンホも皆別の事をしたと主張しているが、被告が運営を中断した以降も道場はキム・チョンホによって続いていたと見える)。その後キム・チョンホは訴外ナ・ソンギュンの助けで1986年6月ソウル江南区三成洞に「海東剣道」という名称を使った剣道道場を開館し、被告は海東剣道研究所長という職につくことで剣道道場の総館長だったキム・チョンホと一緒に「海東剣道」の普及に力をつくすようになった。

(5) 上記三成洞道場は1987年2月3日設立者をキム・ヒョンジン、定員を150人としてソウル市江南教育区役所に「海東剣道体育道場」という名称で正式登録され、同年4月6日には商号を「海東剣道体育道場」、代表者をキム・ヒョンジン(同年9月21日ナ・ソンギュンを代表者に追加した)として事業者登録を終え、一方1989年5月10日代表者をキム・ヒョンジンとした「大韓海東剣道協会」が組職され、同月25日全北教育委員会に社会団体として正式登録され、同年12月29日にはソウル特別市から業種を体育施設業、営業所の名称を海東剣道体育道場、代表者をキム・ヒョンジン、住所を三成洞道場とした体育施設業届出済証が交付された(この一連の過程でキム・チョンホが代表者に登録されたことはない)

(6)海東剣道は1989年初めまで一般人に知られていなかったのみでなく、剣道界でもよく知られていなかったが、1989年6月頃被告が主人公ユ・シグァンとして出演したTVドラマ「無風地帯」が視聴者から人気をあつめるようになってそこで放映された体力鍛錬過程及び剣道場面が海東剣道であり、被告が海東剣道の有段者というのが一般に広く知られ、海東剣道を学ぼうとする人々が寄り集まるようになり、これを前後して前述のような協会の組職及び結成が成り立つようになった。

(7)大韓海東剣道協会が組職されキム・チョンホは協会の専務理事の職責を、被告は以前と同じく海東剣道研究所長の職責を引き受け、訴外キム・ヒョンジンが協会の代表を引き受けるようになった。

(8)一方「無風地帯」が視聴者から人気を呼ぶなか被告は放送などに出演して自分を剣道7段の有段者と紹介し、これに対して1989年6月30日大韓剣道協会により被告がエセ剣道教習所運営及び剣道7段詐称で告訴されたのを受け、自分は海東剣道協会所属で、海東剣道7段の有段証を所持しており、大韓剣道協会の資格証とは無関係だと主張し大韓剣道協会を誣告罪で対抗告訴し、その後被告に対する捜査過程でキム・ヒョンジンが代表者になった海東剣道体育道場と大韓海東剣道協会で発給した有段証を提出することで嫌疑なしとの意見で捜査が終決されるなどの紆余曲折を経験したがこれによりむしろ世間には被告と海東剣道の名前が広く知られるきっかけになった。

(9)一方海東剣道が一般に広く知られこれを学ぼうとする人々の数が増え全国の多くの道場が海東剣道道場として大韓海東剣道協会に加入するようになると加入費用の受領及び使用など協会の運営と関連しその構成員たちの間に徐々に紛争が発生し始め遂に1991年11月頃には大韓海東剣道協会が分裂するに至り、被告は分裂後「海東心剣道協会」を作ってその代表者職を引き受け1991年11月13日ソウル特別市に社会団体登録を終えた。

(10)被告は1992年1月27「海東心剣道協会」を自ら解散しまた大韓海東剣道協会に復帰した事があるが(「海東心剣道協会」はその後「心剣道協会」という名前に変更されて維持されている)、その後にもキム・チョンホと所属館長の間に金銭問題に関連した訴訟が引き起こされて、一部道場が離脱するなど分裂が続き1992年末頃の分裂していった道場の館長たちにより「韓国海東剣道協会」が結成されると被告は韓国海東剣道協会の会長に就任した後、1993年1月25日社会団体登録を終え現在に至る。

(11)被告が会長である韓国海東剣道協会は大韓海東剣道協会が教える剣法の内容(海東剣法概論に記述された心象剣法、双手刀、鋭刀、本国剣法、長白剣法、双剣、撃剣)外に双手剣法、外手剣法、左方剣法、右方剣法、外右剣法、外左剣法、夢卜剣法、飛鳶剣法など(主に心剣道の内容を成すことと見える)の剣法を一緒に教えており、一方現在国内には原告側の大韓海東剣道協会と被告側の韓国海東剣道協会以外の「国際海東剣道連盟」、「道法海東剣道会」、「韓国伝統海東剣道協会」、「海東心剣道協会」などの団体が海東剣道という名称を利用し各々その傘下に数十~百余に至る体育道場を所属させて活動しており、原告は国内に160余個(200個以上だと主張したりする)、被告がやはり国内外をひっくるめて相当な数の体育道場をその所属道場にして運営されている。


では白頭山の師匠とは誰なのか?

▲ いまや海東剣道創設当時の歴史と誰がどんな剣法を作り上げたのかが明確になった。どうせ高句麗とは全然関係がないし、何人かの手によって最近作られた武術であるということだ。

それならキム・チョンホ氏が自分に武術を教えたと粘り強く主張する白頭山師匠は果して誰だろう? 初期に海東剣道を学んだ人々はキム・チョンホ総裁がたまに 「白頭山のチョン・ソンニョの話」をしたと回想する。逹磨大師が白頭山へ来てチョン・ソンニョに自分の腕を切って捧げて武術を伝授したというのだ。もちろん逹磨大師が隻腕だということは仏教係では認められていない偽りだ。

-- (中間省略) --

キム・チョンホ総裁は気天を学んだから、気天の説話を海東剣道の説話で変化させて語ったとしてもおかしなことはないし気天を修練した一部の人々が冠岳山の庵に集まって修練した時代もあったので、白頭山師匠が冠岳山で自分に海東剣道を教えたというキム・チョンホ氏の主張の根拠が明確になる。

結局白頭山師匠と言うのは気天のパク・テヤン氏だったのだ。

…また心剣道創始者キム・チャングシク総裁の証言によれば、自分が心剣道を教えたソン某氏が後で冠岳山で100日祈祷に精進しながら、風車剣法というのを創案したが、現海東剣道の創始者たちがそこでその剣術も学んだと言う。冠岳山で海東剣道を教えた白頭山師匠という虚構の人物はこんなさまざまな事実を基礎して形状化されたのだった。しかしパク・テヨン氏とソン某氏を白頭山師匠に格上げさせた功労はキム・チョンホ総裁のアイディアであったようだ。

(出処: 「海東剣道は本当に裁判所の判決で、偽りだと判決されたんですか?」 - ネイバー知識iN)

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