2011年7月7日木曜日

ワシントン州立大学のトンデモ通信教材を翻訳する その3

大和国

本州の南西最端にある大和半島[紀伊半島]は中国からの文化的影響が日本へと渡ってきた地域であった。始まりは西暦300年、本州の南にある奈良・大阪の地域で弥生文化の中から新たな文化が頭角を表した。この文化は「古墳」と呼ばれる巨大墳墓を建造し、そのうちのほとんどが現存している。これらの墳墓は、韓国の同様の慣例に習って築かれた。この時代の人々は、これらの墳墓にちなんで「古墳人」と呼ばれる。最初の200年間は、古墳を満たした埋葬品は鏡や玉などで、弥生時代の墓の物と同様であった。しかし西暦500年になるとこれらの古墳は鎧や武器で埋め尽くされた。そのためこの時代に、新たな文化の波の影響が韓国から日本へ押し寄せたのだと我々は知ることが出来る。

我々の知る日本最初の国家は「大王」を意味する「大和(やまと)」によって治められた。日本の史書によれば大和国が出来たのは西暦500年の頃で、この時期はすなわち、韓国からの文化的影響の新たな波が日本南部を伝播した時期であり、覇権が非常にゆるい時期であった。大和地方は大阪周辺の平野で、日本で最も肥沃な農業地帯だ。大和の王たちは難波(なにわ、現在の大阪)に首都を置き、富と力を王に与える貴族たちに囲まれながら覇権を楽しんでいた。彼らは、大和王の富と力を誇示する記念碑的な巨大墳墓を自ら建造した。鍵穴の型をした仁徳陵は、サッカー場の5倍の長さとクフ王のピラミッドの2倍の体積を持つ。

日本の史書によれば、役人や地方貴族に与えられた肩書きは韓国式役職であり、大和朝廷は、韓国の形式を模範としていた。弥生時代と同様に基本的な社会単位は氏であったが、軍事力に基づく貴族階級がそれに加わった。この軍事的貴族階級は、最も強力な集団の一つとして1868年の明治維新まで日本史に残り続けた。さまざまな家柄の貴族たちは互いに平和に暮らそうとしなかった。大和朝廷は、権力維持のために貴族たちの中で常に戦い続けた。

この時代、日本は朝鮮半島に駐留地を持った。韓国は文化的・政治的に最も劇的な時代にあった。半島は三つの大国に分断されていた。北に高句麗、東に百済、そして西に新羅である。百済は日本の戦略的重要性を理解し、大和朝廷と同盟を結んだ。大和と百済のこの繋がりは、初期日本史において文化的に最も重要なものの一つだ。百済王朝は日本に陶芸・冶金・芸術などの職人を送った。しかし彼らは同時に中国の文化も取り入れた。5~6世紀のころ韓国人は、日本人の名前を記録するために漢字を輸入したのだ。513年、百済王朝は大和朝廷に儒教家を送った。552年、百済は仏画・仏典・仏教家を送った。この3つの輸入品、すなわち文字・儒教・仏教は、弥生移民がそうしたように日本の文化を根底から変容させただろう。

聖徳太子

初期日本における最も重大な時代が女帝・推古天皇(在位592-628)の統治中に起こった。500年代末、百済と大和の間の同盟は破綻した。これは結果的に朝鮮半島における日本の所有地を失うことにつながった。日本へやってきた韓国移民団のみならず、強力な軍事力を持つ大和朝廷内の貴族たちが、大和の覇権に対して抵抗を始めた。

大和朝廷はこれらの問題に対し、中国式の政府を導入することで対応した。7世紀初めには、中国の政府・社会・哲学を学ぶために使節団を中国に送った。帰国すると、中国式に沿って朝廷を再編し、仏教を保護し、中国式の暦を採用した。これら全ての変更は、推古天皇治世時の摂政であった聖徳太子(573-621)によって実施された。しかし彼の最も重要な貢献は、604年に中国式の憲法を採用して書いた「十七条憲法」だ。これは日本語で書かれた最初の文章であり、日本史の大半を通じた日本政治の包括的な哲学的基礎を形作った。この憲法は(仏教的要素がいくらか含まれているとはいえ)儒教の教えに強固に基づいている。そこには、宇宙は天・地・人の3つの世界で形作られ、皇帝は臣民の福祉を保証するために天の意志によってその地位に置かれているという儒教的信仰が述べられている。日本史初期における「大王」は「天の皇帝」を意味する「天皇」へと変わった。十七条憲法は儒教的美徳に則り、調和・秩序・役人の道徳開発の重要性を強調している。

しかし聖徳太子は敬虔な仏教徒でもあった。憲法の第二条には「仏教の三宝を篤く信仰せよ」と明確に統治者に命じている。とはいえ憲法全体では儒教が圧倒している。

大化の改新

この憲法は、聖徳太子の出身一族である蘇我氏の治世に反対するクーデター勢力によって支持された。新たな天皇である孝徳天皇(645-655)は精力的な改革運動を始め、645年の「大化の改新」勅令でピークを迎えた。この勅令は大和朝廷の儒教家たちによる支援をうけて書き上げられ、日本の天皇制の基礎を形作った。統治者はもはや族長ではなく、天の命により裁定された天皇となり、絶対権利を行使するようになった。日本はもはや分断された国家群ではなく、中央官僚によって管理される天皇の属領の集合体となった。この改新令は全ての役人に対し厳しい変革を受容するよう要求し、また同じレベルのモラルと官僚としての能力を発揮するよう求めた。しかし日本は未だ、大部分が新石器文化であった。中国式皇帝の理念が根付くには、まだ数世紀かかるだろう。

2 件のコメント:

  1. ひでえ('A`)
    どこのキチガイが書いたんですかこれ。

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  2. ワシントン州立大学のリチャード・フッカーという人です。

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